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解放の神学はKGBの発明だった

ラテンアメリカで生まれたと思われてきた解放の神学は、被差別部落解放の神学やフェミニスト神学などの形を取って、今日の日本のキリスト教徒にも影響を与え続けている。解放の神学の創始者と思われてきたグティエレスの著書は、日本語に翻訳されて出版されている。冷戦時代にソ連圏のルーマニアから米国に亡命したイオン・ミハイ・パチェパは、解放の神学がKGB の創作であったことを明らかにした。トーマス・D・ウイリアムズが2015年5月にブライトバート・ニュースに投稿した記事に基づいて、解放の神学とソ連のインテリジェンス機関とのつながりに関するパチェパの主張を、以下に紹介したいと思う。

東西冷戦時代にルーマニア秘密警察の長官を務めたイオン・ミハイ・パチェパは、2015年のカトリック・ニュース・エージェンシーとのインタビューの中で、解放の神学がソ連国家保安委員会KGB による発明であったと主張した。共産主義体制の独裁者であったニコラエ・チャウシェスクの側近であったパチェパは、祖国ルーマニアを裏切って、1978年に米国に亡命した。亡命後、「冷戦の最も重要な裏切り者」と呼ばれたパチェパは、そのインタビューの中で、ソビエト連邦とラテンアメリカの解放の神学との関係を明らかにした。

解放の神学は、ラテンアメリカでキリスト教を伝道したカトリック教会の宣教師たちによる実践から生まれたと思われていた。ところが、パチェパの証言によると、解放の神学はKGBの創作であり、KGB は南アメリカ大陸にマルクス主義を導入するために、解放の神学をラテンアメリカに輸出したのである。

パチェパの証言によると、KGB と解放の神学の関係についての詳細をパチェパに語った人物は、アレクサンドル・サハロフスキーだった。サハロフスキーはソ連の軍人であると同時に、ルーマニアのインテリジェンス機関の補佐官を務めていた。このサハロフスキーは後に、KGB の対外諜報機関PGU の長官になった。

1959年にサハロフスキーは、ソ連の最高指導者ニキータ・フルシチョフと共にルーマニアを訪問した。これは「フルシチョフの6日間のバケーション」として知られることになった。パチェパのよると、フルシチョフは「中央アメリカと南アメリカに共産主義を輸出したソビエトの指導者として歴史に名を残すことを望んでいた」という。フルシチョフは輸出の拠点としてルーマニアを選んだ。なぜなら、ルーマニアはソ連圏の中で唯一のラテン系の国であり、言語と文化の類似性の故にラテンアメリカとの論理的なつながりを提供していたからである。

パチェパによると、KGB は単に解放の神学に浸透していただけではない。解放の神学は実際に、ソ連のインテリジェンス機関の独創的な発想だったのだ。「その運動はKGB で生まれたのであり、それはKGBが発明した解放の神学という名称を持ったのだ」とパチェパは語った。当時、KGB は「解放」運動にのめり込んでおり、解放の神学はぴったり合っていたのだ。コロンビア民族解放軍は、フィデル・カストロの支援を得て、KGB によって創設された。また、ボリビア民族解放軍は、「チェ」・ゲバラの支援を得て、KGB によって創設された。さらに、パレスチナ解放機構は、ヤセル・アラファトの支援を得て、KGB によって創設されたのである。

パチェパの証言によると、解放の神学は、1960年代の最高機密である「一政党国家偽情報プログラム」から生まれた。このプログラムは、アレクサンドル・シェレーピンKGB議長とアレクセイ・キリチェンコによって承認されていた。このキリチェンコは、ソ連共産党政治局のメンバーであり、ソ連の国際政策の調整役を務めていた。このプログラムには、スイスのジュネーブに拠点を置く世界教会協議会をKGB がひそかに支配するという指令と、解放の神学を南アメリカの革命の道具に変えるための隠れ蓑として世界教会協議会をKGBが利用するという指令とが、含まれていたのである。パチェパによると、ソ連政府は、世界教会協議会がバチカンの次に巨大な国際的エキュメニカル組織であることを知っていた。この組織は、120ヶ国の約5億5千万人のキリスト教徒の多様な教派を代表していたのである。

パチェパによると、KGB は段階的な手順に従って、解放の神学をラテンアメリカに持ち込んだ。KGB はまず、キリスト教平和協議会(the Christian Peace Conference) と呼ばれる国際宗教組織をプラハに設立することから始めた。その組織の主要な任務は「KGB が創作した解放の神学を現実世界に持ち込むことだった」とパチェパは語った。

「この新しいキリスト教平和協議会はKGB によって支配されていたのであり、それはまた、由緒ある世界平和評議会(the World Peace Council) に従属していたのである。この世界平和評議会は、KGB のもうひとつの創作であり、1949に設立され、同様にプラハに本部を置いていた」とパチェパは語った。ソ連圏のインテリジェンス・コミュニティの中で、パチェパは世界平和評議会のルーマニアでの活動を指揮していた。パチェパによると、世界平和評議会の職員のほとんどは、ソ連圏のインテリジェンス機関のスパイだった。世界平和評議会がフランス語で出版した『ヌーブル・パースペクティブ』と『クーリエ・ドゥ・ラ・ぺ』もまた、KGB とルーマニアのインテリジェンス機関DIE の秘密工作員によって指揮されていた。

パチェパが語ったところによると、1968年に「KGB創設のキリスト教平和協議会は、地球規模の世界平和評議会による支援を受けながら、南アメリカの左翼の司教たちを操ることによって、コロンビアのメデリンで、ラテンアメリカ司教協議会を開催させることができた」のである。その協議会の公式の課題は、貧困の解決策を追い求めることであったにもかかわらず、その「宣言されなかった目標」は、「『貧困という日常化した暴力』に対する貧しい人々の反抗を促進する新しい宗教運動を承認することであり、世界教会協議会がこの新しい運動を公認するように勧めること」であったとパチェパは語った。このメデリンでの司教協議会は、両方の目標を達成した。

「私は最近、グティエレスの著書『解放の神学:歴史、政治、救済』(1971年) にざっと目を通してみたが、それがルビヤンカで書かれたという感想を抱いた」とパチェパは語った。「彼が今や解放の神学の創始者と評価されていることは、驚くに値しない」とパチェパは語った。

パチェパの西側への亡命から6年後に、バチカンは当時のヨゼフ・ラツィンガー枢機卿の指導の下で、解放の神学を厳しく批判する最初のふたつの文書を発表した。このバチカンの指令の目的は、マルクス主義思想の概念を無批判に使用する解放の神学の逸脱に対して、注意を喚起することであった。このバチカンの指令はまた、解放の神学が聖書の「貧しい人」とマルクス主義の「プロレタリアート」との混同を生み出していることについて警告を発した。その指令は、解放の神学が貧しい人のキリスト教的な意味を曲解しており、しかも貧しい人の権利のための戦いを、階級闘争という視点の中でのある階級の戦いに転換していると指摘した。

パチェパの言葉によると、解放の神学は「宗教を無神論的なイデオロギーに従属させることによって地政学上の利益を得るために、キリスト教をひそかに傷つけることと、西側諸国を不安定にすることとを、用心深く計画して」いたのである。

資料 https://www.breitbart.com/national-security/2015/05/02/highest-ranking-cold-war-defector-the-kgb-invented-liberation-theology/

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