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歴史小説 畠山重忠 その二

鎌倉入りを果たした後、頼朝は関東の足固めにほぼ三年の月日をかけていた。富士河の戦いに破れた後、京都にある平氏方も積極的に攻めては来ず、源平の争いは膠着状態が続いていた。

その間、重忠は着実に鎌倉での地歩を固めていた。新しく頼朝が建てた大倉の館のすぐ近くに宿館を構え、頼朝の外祖父である北条時政の娘を妻にしていた。時政の長女は頼朝の妻政子である。重忠は頼朝と妻を通じて縁戚関係を持ったのだ。

寿永二年(一一八三年)五月、情勢が急変する。源氏の同族木曾義仲が、加賀と越中の国境にある倶利伽羅峠で平氏の大軍を破り、騎虎の勢いで京に進軍したのだ。平氏は京に火を放って、西国に落ちていった。その後義仲が入京するが、うち続く西国の飢饉に糧食の補給が出来ず、麾下の兵士を統率できなくなってしまう。

さらには、後白河院の政治力に翻弄され、都の人々の信頼を全く失ってしまった義仲は、院の御所に火を放ち、後白河院を伴って北陸に逃れようとした。すんでのところで危機を脱した後白河院は、鎌倉の頼朝に義仲追討の命を発する。尾張のあたりまで弟である範頼、義経を進軍させて様子をうかがっていた頼朝は、ついに軍を京都に進めることを決断した。

元歴元年【一一八四年】正月。二十一歳になった重忠は、五百騎の精兵を率いて大将軍九郎義経の軍の中にあった。義経は搦め手の大将として二万五千騎を率いて宇治から京都を目指していた。

二十日早朝、義経の率いる軍は、伊賀の国を経て宇治橋のたもとに押し寄せた。勢多の渡しも、宇治の渡しも、橋板を引いてわたれなくしてあった。さらに、河の底には杭が乱雑に打ち込まれ、これに太い綱が張りめぐらされている。逆茂木もあちこちに打ち込まれている。

河の流れは、比良の山々から流れ出た雪解け水が、白浪おびただしくみなぎり落ち、滝のような音を立てて渦巻き流れている。夜はほのぼのと明けようとしていたが、河霧が深くあたりに立ちこめ、馬の毛も、鎧の色も定かに見分けられないほどだった。

「いかがすべき。さらに下流に回って河を渡るべきか、それとも、水量が減少するのを待つべきか。」

義経は自ら河の端に進み、その面を見渡しながら皆に問いかけた。すると、重忠が進み出て言った。

「鎌倉を出立する際、侍所でこの河のことは念を入れて評定して参りました。新しい河が急に出現したわけではありません。さらに、この宇治河は近江の湖を源としております。いつまで待とうと、水が引くこともありますまい。治承の合戦の際、この河を渡った足利又太郎も鬼神故に渡ることが出来たのではないでしょう。この重忠が先頭になって浅瀬を踏んで確かめましょう。皆様方はその後をたどりなされば難なく渡ることかないましょうぞ。」

重忠は率いる畠山党五百騎を集合させ、びっしりと馬首を並べて密集隊形を取らせた。ひしひしと河に向かって進む馬の吐く息がうっすらと雲のように流れていく。

そのとき、佐々木四郎高綱と梶原源太景季が、重忠たちの渡ろうとする場所よりやや上流に馬を駆けさせた。二人は、必ず先陣を、と心がけていたのだった。景季は高綱よりも一段ほど先を進んでいたのだが、

「この河は西国一の大河ぞ。貴様の腹帯がゆるんでいるように見えるが、それでは渡りきれまい。」と高綱に声をかけられ、左右の鐙に足をかけ、手綱を馬のたてがみのところに投げかけて腹帯を解いて締め直した。

その隙に高綱は馬をざっと河に打ち入れ、太刀を抜いて水中の大綱を、ばふっ、ばふっと打ち切りつつ進んでいく。高綱の乗る馬は「いけずき」という天下に並ぶもののない名馬でもあり、宇治河の流れがいかに速かろうと、一文字にざっと渡って対岸に打ちあがった。

「宇多天皇より九代の後胤、佐々木三郎秀義が四男、佐々木四郎高綱、宇治河の先陣ぞや。われと思わんものは組めや。」高綱がおめき叫ぶのを聞きながら、重忠は味方の兵を叱咤する。

「佐々木の馬は強き馬とは言いながら鬼神にはあらず。我らも必ず渡ることができよう。馬の足が河底に届かなくなったら手綱をゆるめて泳がせよ。強い馬を上流に立て、流れを防がせろ。」

重忠の下知に従い、畠山党五百騎は、打ち浸し、打ち浸し進んでいく。対岸からは矢が雨のように降ってくる。

「鎧の左の大袖を顔の正面にかざせ。鎧は絶えず揺すって札の重ねを整えて、隙間が空かぬようにせよ。お互いの弓と弓を交差させよ。前の馬の尻輪に後ろの馬の頭を乗せて息を継がせるのだ。水流に従って渡れや者ども。」

こうした重忠の姿を見て、大将軍九郎義経に違いないと平氏方の矢が集中する。その中の山田次郎が放った十四束の征矢が、重忠の跨がる鬼栗毛の額に深々と突き刺さった。鬼栗毛はそれでも踏ん張り流れを進もうとするが、さすがに傷を負って流されようとする。

重忠は馬を降りると、鬼栗毛の前足二本を取って妻手の肩に引っかけ、水の中にざんぶともぐる。一度だけ息を継ぐために水面に顔を出したが、そのまま対岸まで泳ぎ切った。傷ついた鬼栗毛を岸に上げ、自らも上ろうとしたとき、何者かが重忠の草擦りをつかんだ。

「何者か、名をなのれ。」
「大串次郎なり。」
 大串次郎は、重忠が烏帽子親になってやった十五の若武者であった。
「わしの腕につかまれ。」
 重忠は言うが早いか、大串次郎の身体をつかむと岸に投げあげる。
「我こそは宇治河を徒歩にて渡りし先陣なり。我が名は武蔵の国の住人大串次郎なり。」
 投げあげられた大串次郎は、弓にすがって立ち上がると大音声におらんだ。敵も味方もそれを聞いてどっと笑う。さては失言したと思ったのか、
「一陣は畠山。二陣が大串。」と、言い直す。

大串を投げ上げた重忠は、さらに赤威の鎧を着て流されていく若武者を見つける。
「これをつかめ。」重忠はその若武者に弓を差し出す。

「塩谷小三郎維広。」名乗った若武者は重忠の差し出した弓にとりつき、浅瀬に上る。重忠も続いて岸に上り、それに畠山党の武者どもが続いていく。佐々木高綱が先陣をきったとしても、馬一頭、人二人を救いつつ、精兵五百騎を先頭たって渡らせた重忠の手柄に及ぶべくもない。

平氏方は矢先を揃えて重忠に射かける。重忠は錣を傾けて矢を防ぎ、乗り替えの馬に乗る。そこに、連銭葦毛の馬に乗り、火威しの鎧を着た武者が進んできた。

「何者ぞ、名を名乗れ。」と、重忠が叫ぶと、
「木曾殿の家の子、長瀬判官代重綱。」と、名乗る。
重忠は、「今日のいくさ神にささげん。」と、言うが早いか馬を駆けさせ、重綱に並ぶと、むんずと引き落とし、一瞬にして首を掻き落とした。首は本田二郎の鞍の後輪の紐にひっくくる。これを手始めに、重忠率いる五百騎は、垣楯の中から矢を射る木曾方に駆け寄って、散々に陣をうち破る。

九郎義経は第一陣の畠山勢の攻勢を目にし、二万余騎の味方の諸勢に一斉に渡河するよう命ずる。千騎、二千騎、二百騎、七百騎と、思い思いに打ち入れて河を渡った源氏の兵は、木幡大道、醍醐路、伏見、深草の里、とこれまた思いのまま都へ乱入していく。もはや、木曾方には、それらを防ぐ術は全くなくなっていた。

その頃都の義仲は、院の御所六条殿へ急いでいた。御所には、院をはじめとして公卿、殿上人が集まり、合戦の結果を見守っていた。ある者など手を握りしめ、神仏にたてられる限りの願をかけてふるえている。そこに義仲が向かっているとの知らせがあったのだから、皆、殺されるに違いないと恐怖に卒倒する者さえ出てくる始末。

結局、思いのほかに早く、宇治、勢多の守りを破られたことを知らされた義仲は、三百騎ほどの味方を引き連れて三条通から山科を経て大津に向かう路に転じた。
 さて、宇治を破った九郎義経は、ただひたすら都を目指して馬を急がせた。従うことの出来た者は五騎のみ。義経は院の安否を気遣い、ただ一騎になろうとも院の御所に向かうつもりだったのだ。

御所では大膳大夫業忠が築地の上に登って合戦の成り行きを見届けようとしていた。そこに白旗掲げた六騎の武士が馳せ参じたものだから、義仲が戻ってきた、と勘違いし驚いて飛び降りる際に腰をしたたかに打った。

「これは、鎌倉兵衛佐頼朝の使い、舎弟の九郎冠者義経なり。たった今、宇治を破って馳せ参じました。とにかく院に御奏聞あれ。」と、義経は騎乗したまま門の前で声高に叫ぶ。

立ち上がれないほど腰を打った業忠だったが、門外に参った武士どもが東国の者たちと知りうれしくなり、這いずりながらも院の御前に参ってつぶさに言上した。院をはじめとしその場に居合わせた者は大いに悦び、とにかく門を開いて義経らを中に入れた。

義経たち六騎は門外にて下馬し、作法通り中門の外の車宿の前に整列した。院はあまりにうれしかったのであろう、中門の櫺子格子からこれらの武者どもをご覧になった。そして、出羽守貞永をしてみなに年齢、交名、住国を名乗るよう命じた。
 義経が名乗った後、薄紅の紙を切って、弓の鳥打ち程に左巻きにし、青地の錦の直垂に赤威の鎧を着た重忠が、

「武蔵の国の住人秩父の末流畠山庄司重能の嫡男、次郎重忠。生年二十一。」
と大音声に名乗った。以下、渋谷重国、河越重頼、梶原景季、佐々木高綱、と名乗っていく。

院はそれらをお聞きになって、「その面魂、振る舞い、ゆゆしき壮士たちなり。今夜はこのまま御所に侯いて、守護すべし。」と命じた。

義経は続々とやってくる武士たちに御所の警護を指示していく。面目をほどこした重忠は、義経の命もあって畠山党をまとめて義仲を追うこととなった。

義仲は行く手を源氏の大軍に阻まれ、数度の合戦の後、三条河原まで退いていた。率いる味方も六十騎余りとなっていたが、さすがに歴戦の勇士が義仲と最後を共にしているのだろう、まん丸になって源氏の兵を寄せ付けなかった。

そこにやって来た重忠は、「東に向かって落ちようとしているのはまさか義仲殿ではあるまい。畠山次郎重忠がお相手いたそうほどに、返して合戦したまえ。」
と叫んだ。

義仲はそれを聞くと、「誰よりもよい敵にあった者かな。皆の者覚悟を決めて戦え。」と、下知した。

木曾勢も畠山勢も、これを最後と矢が尽きるまで射合うが、さすがに木曾勢は数が少なく、雨が降るように畠山勢の矢をあびてしまう。頃合いを見て打ち物取って攻めかかって来る畠山勢を追い返しては再び弓矢で戦い、また攻めかかってきたのを太刀を持って斬り合う。

そうした乱戦の中、葦毛の逞しい馬に乗った萌黄威の鎧を着たひときわ目立つ武者がいた。その射る矢は強く、太刀も強かった。畠山の我と思わん武者が数度にわたって戦いを挑むのだが、みなむなしく命を落としていく。それを見た重忠が、半沢六郎成清を呼んで、

「あれは何者だ。木曾の四天王と呼ばれた今井、樋口、楯、根井のいずれでもなさそうだ。」と問う。
「あれこそは義仲の乳母、中三権守の娘で巴です。巴は義仲殿の妾でもあるということ。」
「よし、今日の戦の獲物として生け捕りにしよう。」
と、重忠は馬を巴に寄せていく。

そうはさせまいと、義仲も馬を進めて、重忠と巴の間に入る。そうこうするうちに、重忠の腕が巴の弓手の鎧の袖にかかった。巴はその瞬間、馬に鞭を加えた。馬は信濃第一の強馬。重忠のつかんだ鎧の袖がふっと引きちぎれて巴は東を指して駆けていった。それを追って義仲も落ちていったが、すでに従う味方は七騎だけとなっていた。

重忠は後を追うことなく軍を退け、院の御所に戻っていった。


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