たつきさとし

歴史小説を書いています。

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歴史小説 畠山重忠 その6

北条時政の館は名越の山の中にあった。涼しい海風の吹き込む一室で、時政は息子の義時、時房と対していた。 「どうしても畠山重忠殿を討つというのですか。」 「武蔵の国を我が手におさめるには重忠は取りのぞかねがならん。」   義時の問いに時政が答える。   この時期、武蔵の守は平賀朝雅であった。朝雅は時政の後妻、牧の方の娘婿である。重忠は代々武蔵の国の総検校職をつとめる家なのだから、色々な点で朝雅とぶつかることも多かった。在地の領主と名目上の領主との対立である。 「といっても、

    • 歴史小説 畠山重忠 その5

      鎌倉の重忠の館には久しぶりに静かな時が流れていた。 「成清。あの日から五年。世の中はがらっと変わってしまったな。」 「誠にもって。殿のご活躍で、畠山党の所領も増えました。それに、何よりも鎌倉第一の武者としての殿の声望は、我ら畠山党の誇り。先日の南御堂勝長寿院落慶法要の際も、我ら畠山党は随兵の先陣を賜り、面目をほどこしました。」 「所領が増えたといっても、このように日本国のあちこちに散らばっていては、管理のしようがない。きちんとした代官を送るように心がける必要がある。」 「と

      • 歴史小説 畠山重忠 その四

        文治元年【一一八五年】正月、重忠は再び上洛した。 安徳帝と神器を奉じたまま西国をさまよう平氏に対して、京では和を望む声が大きかった。実際、平氏方からも神器と安徳帝の京への奉還が策されもした。 しかし、後白河院の平氏追討の決意は強く、たびたび頼朝の上洛を促している。結局、今回も頼朝は上洛せず、範頼、義経の両名に平氏追討の命を下す。 範頼は摂津の国神崎より兵船をそろえて山陽道に向かい、義経は同じく摂津の国の渡辺から四国の屋島を目指すことになった。義経に従うのは畠山重忠、和田

        • 歴史小説 畠山重忠 その三

          義仲は粟田口にて最期を遂げ、その首は二十六日には都大路を引き回され獄門の樗の木に賭けられた。これを見届けると、源氏の全軍は二十九日には都を後にして、一ノ谷に城郭を構えて京都をうかがっていた平氏を目指した。 二月四日に摂津に集結した源氏の諸勢は、大手の大将軍範頼に、小山朝政、梶原景時ら武将三十二人、五万六千騎が従い、搦め手の大将軍義経に、畠山重忠、土肥実平ら武将十七人、二万五千騎が従った。 守る平氏は、福原の旧都に、西は一の谷に城郭を構え、東は生田の森に大手の木戸口を定め、

        歴史小説 畠山重忠 その6

          歴史小説 畠山重忠 その二

          鎌倉入りを果たした後、頼朝は関東の足固めにほぼ三年の月日をかけていた。富士河の戦いに破れた後、京都にある平氏方も積極的に攻めては来ず、源平の争いは膠着状態が続いていた。 その間、重忠は着実に鎌倉での地歩を固めていた。新しく頼朝が建てた大倉の館のすぐ近くに宿館を構え、頼朝の外祖父である北条時政の娘を妻にしていた。時政の長女は頼朝の妻政子である。重忠は頼朝と妻を通じて縁戚関係を持ったのだ。 寿永二年(一一八三年)五月、情勢が急変する。源氏の同族木曾義仲が、加賀と越中の国境にあ

          歴史小説 畠山重忠 その二

          歴史小説 畠山重忠 その一

          秩父の山々は緑にあふれていた。その山々の背後には澄み切った青空が広がり、その爽やかな空気の中を一人の若武者が馬を駆って行く。 六尺を超える立派な体躯を持つこの若武者の名は畠山次郎重忠、十七歳。 畠山氏は代々武蔵の国の総検校職をつとめる家であり、重忠はその畠山氏の現当主重能の嫡男である。今、重能は京都に大番役に上っており、重忠が武蔵の国の棟梁として父の留守を守る立場にあった。 しばらく馬を駆けさせた後、重忠は道の傍らに流れる小河に馬を休ませた。その重忠を半沢六郎成清が追っ

          歴史小説 畠山重忠 その一

          建保の騒乱 その後

          建保合戦の余韻も収まり、焼け果てた御所の再建の槌音も響き始めた頃、鎌倉を密かに旅立った一人の僧形の男があった。男は京に上った後、高野山に登り、そこの小さな塔頭で仏道修行に励んだ。世間との交わりをいっさい絶ち、目立たぬながらもその修行に打ち込む姿は真摯であった。   そんな男の上を静かに十年の歳月が過ぎていった。突然、鎌倉で実朝が暗殺された。その首が、紆余曲折の末に、高野山に運ばれて来ることになった。首は、新たに建立された金剛三昧院に納められた。首の供養を見届けると男は高野山

          建保の騒乱 その後

          建保の騒乱 その8

          五月三日の寅の刻。 小雨が降る由比ヶ浜には、義盛以下百騎ほどが集まっていた。ほんの一刻ほど前まで続いていた合戦の代償は余りに大きかった。矢は尽き、馬は疲弊し、誰もが傷を負っていた。食べ物どころか、飲み水さえも確保できなかった。皆、目だけがぎらぎらと異様な光を帯びてはいたが、夜明けを期しての再びの攻撃を行う余力は残されていないようだった。波の音だけが静かに軍馬を包む。   その時、遙か稲村ヶ崎の方向から、夥しい松明の明かりとともに、軍馬の響きが聞こえてきた。義盛は数騎の物見

          建保の騒乱 その8

          建保の騒乱 その7

          五月二日、申の刻。 どんより曇った空からは今にも雨が落ちて来そうだった。湿り気を帯びた風がかすかに流れていく。和田の館の若宮大路に面した東門の前には、一族の者と与力の者共が勢揃いした。 「常盛は五十騎を従え、義時第の南門を襲え。朝盛も五十騎を従え、同じく義時第の西北の門を攻めよ。三郎義秀、四郎義直、五郎義重、六郎義信、七郎秀盛等は、残りの手勢を引き連れて横大路から幕府南門に向かえ。将軍家と義時の間を遮断するのだ。土屋、古郡、渋谷、中山、土肥、岡崎、梶原、大庭、深沢、大方、

          建保の騒乱 その7

          建保の騒乱 その6

          三     世の中は   鏡にうつる   影にあれや   あるにはあらず   なきにもあらず 五月二日は、蒸し暑い日だった。和田の館では、朝から慌ただしく皆が働いていた。明早朝の決起に備えて、武器の手入れに余念がなかったのだ。和田氏に与力を約束した、武蔵の横山氏一党も、相模各地の御家人たちも、今ごろは出発を間近に控えて、忙しく準備を進めているはずたった。緊張した面持ちの中にも、一族の受けた屈辱を晴らす時が刻々と近づいている事に、誰もが高揚する気持ちを抑えかねているようだった

          建保の騒乱 その6

          建保の騒乱 その5

          三     世の中は   鏡にうつる   影にあれや   あるにはあらず   なきにもあらず 鎌倉を取り巻く山々の青葉に、走り梅雨を迎えて篠つく雨が降りかかっていた。町は妙に静まり返っていたが、人々は雨の中、忙しく家財を山に隠し出していた。合戦が近づいている気配は、誰もが肌で感じていたのだ。皮肉な事に、朝盛の出家が、和田方、北条方の決戦の導火線に火をつけた格好になっていた。 それでも将軍家は、二十七日になって、宮内公氏を義盛の館に使いさせた。とにかく思いとどまるように、将

          建保の騒乱 その5

          建保の騒乱 その4

          数日後、胤長の屋地の跡は、朝盛が五條の局を通じて義盛の嘆願書を実朝に届けた事で義盛に下された。しかし、その直後、北条義時の家人、金窪行親、安東忠家等の手勢により横領されてしまった。屋地を下された事に喜悦し、久野谷弥次郎以下数名の家人しか置いておかなかった義盛の不手際だった。 ここにいたっては、例え幕府に訴えたとしても、政所を握る執権義時の命である、という北条方の言い訳が通ってしまう。義盛は鬱屈を含むといえども、勝ち負けを論じたならば結果は明白なので、敢えてこの事にはそれ以上

          建保の騒乱 その4

          建保の騒乱 その3

          二     ほのほのみ   虚空に満てる   阿鼻地獄   行くへもなしと   いふもはかなし 化粧坂を登った辺りの桜も葉桜ばかりになっていた。義盛は、御所での屈辱の件の後、和田の庄に数日間滞在しただけで鎌倉に戻っていた。そして、侍所別当として御所への出仕も再開していた。ただ、義盛とともに鎌倉に戻ったのは、嫡男常盛と、その子朝盛だけであった。 朝比奈義秀は和田の庄に残り、上総、三浦等に散らばる和田氏の所領から、少しずつ兵を募っていた。また、四男義直は武蔵の国の横山氏へ、五

          建保の騒乱 その3

          建保の騒乱 その2

          翌早朝、義盛は、郎党一名と小者二名を連れただけで御所に参上した。実朝は上機嫌で義盛と応対した。一昨日、閑院内裏造営の功により、正二位の位に叙せられたとの報が、源仲章によってもたらされたばかりだったのだ。 実朝は、すぐさま義盛の二名の子息たちの赦免に応じた。将軍家の恩に対して、大げさな振る舞いで感謝を述べて御所を退出する義盛の背中には、もはや昔日の無骨な面影は薄れはじめていた。 義盛は、義直、義重の二人の子息を伴って館に戻った。彼らを迎えた和田一族の面々は、将軍家が自分たち

          建保の騒乱 その2

          建保の騒乱 その1

          鶴岡八幡宮寺の赤橋から海に向かって一町ほど下った西側に和田氏の館はあった。若宮大路に面したその館の広さは、さすがに幕府の宿郎として侍所の別当職を預かる義盛の権勢を誇っている。 大路とは幅は狭いながら水をたたえた掘り割りを隔てていて、その掘り割りの1カ所には橋が渡され二層の櫓門も作られている。櫓の上には腹巻き姿の長槍をかまえた郎党らが篝火に照らされていた。すでに日が暮れて波の音が大きく聞こえてきている。 館には、和田氏の主な一族、庶従、百名ほどが集まっていた。その多くは、直

          建保の騒乱 その1