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歴史小説 畠山重忠 その三

義仲は粟田口にて最期を遂げ、その首は二十六日には都大路を引き回され獄門の樗の木に賭けられた。これを見届けると、源氏の全軍は二十九日には都を後にして、一ノ谷に城郭を構えて京都をうかがっていた平氏を目指した。

二月四日に摂津に集結した源氏の諸勢は、大手の大将軍範頼に、小山朝政、梶原景時ら武将三十二人、五万六千騎が従い、搦め手の大将軍義経に、畠山重忠、土肥実平ら武将十七人、二万五千騎が従った。

守る平氏は、福原の旧都に、西は一の谷に城郭を構え、東は生田の森に大手の木戸口を定め、山陽道八か国、南海道六カ国の軍勢十万余騎を率いている。この一ノ谷の城郭は、北は山、南は海の細長い地形を生かして作られていた。いたる所に大きな石を重ね上げ、大木を切って来て逆茂木とし、はては船を陸揚げして楯のように並べてもいた。

そうした防御施設の奥には櫓を高く築き、そこには十分な矢玉が確保され、いざと言うときには雨のように矢を射ることができるようにしてあった。また、鞍を置いてすぐにも騎乗できるようにした馬も雲霞のごとく準備され、平氏の赤旗が春風に翩翻と翻る様は、まるで火炎が燃え上がるかのように遠目には見えた。

源平両軍は、七日払暁に矢合わせ、と定めた。実は、源氏は四日に攻め寄せるはずだったのが、この日は故入道相国の忌日ということで取りやめ、平氏方に仏事を行わせた。五日、六日はそれぞれ陰陽道によって日が悪かったので、結局七日となったのだ。

義経に率いられた搦め手の軍は、丹波路を駆け、二日の行程を一日で進み、五日の夜半には丹波と播磨のさかいにある三草の山の小野原に達した。この小野原から三里ほど離れた山口には、平氏の別働隊三千騎が大将軍小松新三位中将資盛に率いられて陣を敷いていた。

土肥実平に相談した義経は、そのまま夜討ちをかけることに決する。辺りの民家、野原、山々に火をかけ、昼間のような明るさの中、義経軍が攻め寄せる。合戦は明後日。今日はそのためによく寝ておこうと、兜を枕に熟睡していた平氏方は、混乱の極に達する。源氏はまさに無人の野を行くように縦横に暴れ回り、五百余騎の首をあげた。

義経はここで軍を二つに分けた。自らは三千騎を率いて鵯越を目指し、残りの二万数千騎を土肥実平に預けて一ノ谷の西の手を目指させた。鵯越は搦め手のさらに搦め手とも言うべき場所で、まさかここから源氏が攻めてくるとは平氏の方では全く予想をしていない場所だった。

しかし、馬など駆ることは決して出来無い悪所であると聞き、多くの武士たちは、
「武士たるもの敵と対戦して死にたいものだ。足場の悪い崖から落ちて死ぬなどもってのほか。」と、義経との同行をいやがった。重忠だけは一党五百騎とともに粛々と義経に従う。

義経ら一行は、六日は一日中山中を進む。未だに消えぬ雪が所々花のように残り、雲がかかった山は白々と光り輝いてそびえ立つ。苔むす難路を鞭を打ち馬の足を速めて進むうち早くも日が暮れたので、山中で野宿するしかなかった。

さすがに案内者なくしては明日の矢合わせの刻限までには間に合うまい、と考えた義経は、周囲に人を走らせる。その中の一人、武蔵坊弁慶が一人の老爺を伴ってきた。

「この山で日頃から猟をする者をつれて参りました。」弁慶の言葉に義経はうなずき、子細を聞くように命ずる。
「我らは平氏の城郭一ノ谷へ鵯越から攻め込もうと思っているがどう思うか。」
「そのような事は不可能です。鵯越は三十丈の崖でして、その中間には十五丈の岩が突き出ているような悪所です。人はもちろん、馬が下りられるような場所ではありません。しかも、城の内には、平氏の方々が落とし穴を掘り、竹を菱の実のようにその先を削って並べています。」

猟師の言葉を聞いた義経が尋ねる。
「そこを鹿は通うか。」
「鹿は通います。暖かくなれば播磨の鹿は丹波へ通い、寒くなればまた戻ってきます。」
「鹿が通うのであればそれは馬場同然。案内をいたせ。」
と、義経はその猟師を案内者として鵯越を目指した。

七日、すでに日は昇り、大手の木戸口では源平合い乱れての合戦が始まっていた。三百騎、五百騎、二百騎と、入れ替わり、入れ替わり攻め寄せる源氏の兵を、平氏方もよく防いで戦った。そのおめき叫ぶ声は山にこだまし、馬の馳せちがう音は雷のように響いた。

義経たちはそうした合戦の雄叫びを聞きながら、辰の半ば頃やっとのことで一ノ谷の背後の鵯越に達した。上からのぞいてみると、合戦は今やたけなわ。林立する赤旗は春風になびき、波音に混じって鏑矢のうなり声がうねりのように聞こえてくる。

崖は最初の四、五十間が小石混じりの白砂だった。これでは馬の足がとどまることは出来ず、滑っていくしかない。
「鹿が通うという崖ならば、ここは馬場ぞ。者ども落とせ、落とせ。」
と、義経が命じても、みな顔を見合わせるばかりで、一人も進む者はいない。心は先陣を、と逸っても、さすがに恐ろしい断崖を前にして手綱を引いてしまう。
「それならば試しに鞍を置いた馬を落として見よ。」
と、義経は二頭の馬を追い落とさせる。一頭は葦毛の馬に白覆輪、もう一頭は鹿毛の馬に黄覆輪。葦毛は白いので源氏、鹿毛は赤いので平氏になぞらえ、戦の行方を占おうというのだ。

二頭は白砂の上を転ぶことなく滑り降り、大きな厳の上で一旦止まると、しばらくしてさらに下っていく。芦毛の馬は途中転びはしたものの、仮屋の後ろまで落ちていき、這い起きると二声いななき草をはみはじめた。鹿毛の馬は、脚を折ったのだろう、転んだままついに起きあがることはなかった。

「源氏の馬は見事に落ちたぞ。人が乗って心して降りるならば全く問題はない。みな、落ちよ。」
と、義経が命ずるが、それでも誰も進もうとしない。
「えい。すでに合戦取り合いの時も時。馬を崖から落とすための手綱さばきは様々あれども、結局は乗り手の心しだい。この義経が手本を見せよう。」

ついに、義経は自ら真っ逆さまに崖を下っていく。
「つづけ。つづけ。」
という義経の下知に、三千騎の将兵は、
「大将軍に遅れるな。」
と、轡を並べて手綱をかいぐり落ちていく。

やっとのことで大きな厳の所まで降りてきて下をのぞいてみると、苔むした大きな岩があちこちに突き出て、さらに下りようもない。
どうしたものか、と皆の気持ちが萎えようとしたとき、
「いかほどのものかはある。我らが三浦の山々では、狩りに行けばこのような崖はどこにでもあり、兎一匹を追うのにさえこのくらいの所は降りるわい。」
と、三浦の一族佐原重郎義連がただ一騎、手綱かいぐり、鐙踏ん張って真っ先駆けていった。
「義連を討たすな。つづけ者ども。つづけ、者ども。」
と命じつつ、自らも落ちていく義経に、どっと残りの将兵も白旗三十流を春風になびかせて落ちていった。

重忠は三日月という栗毛色のいかにも逞しい馬に乗っていたのだが、何を思ったのかその馬から降りる。宇治河の合戦で鬼栗毛を失った重忠は、この三日月を最も気に入っていた。むち打つ場所に三日月形の月影があるのを重忠が認め、自ら名をつけたほどだった。
「ここで馬を転ばせてはいけない。親も子に世話になる時もあろう。今日は馬を労ってやるべき。」
と、手綱と腹帯をより合わせ、十文字に引きからげ、鎧の上から背負ってしまう。
七寸に余るという大きく太い馬を鎧を着たまま背負ってしまうとは、いかに重忠が大力の持ち主とはいえ、鬼神にも迫る振る舞いと、周りにいた者は皆声を失っていた。

重忠は近くにあった椎の木を一本ねじ切ると杖の代わりにし、岩の間をしずしずと降りていってしまった。とにもかくにも、手を握り、目をふさぎ、馬に任せ、人に随い、三千騎の軍勢は人も馬もみな崖を降りた。そして、同時に鬨を作り、一ノ谷の城郭に乱れ入る。

平氏方では東西の木戸口こそ厳重に固めてはいたが、まさかあの恐ろしい崖を下り降りて攻めてくるとは思ってもいなかった。弓矢を取り、馬に乗る暇もないまま討たれていく。度を失ったまま討ちに討ち殺され、斬り殺され、上になり下になり逃げまどうばかり。

「城郭は広漠なり。賊徒も数知れず。火を放て。火を放て。」との義経の下知に従い、武蔵坊弁慶が次々と火を放っていく。

折からの西風にあおられて火は瞬く間に広がり、平氏の軍兵は、煙にむせび、火に攻められ浜へと逃げまどう。助け船も出てはいたのだが、雑兵どもは乗せられず、
「乗せろ。」
「乗せられない。」
と争う間に、ある者は海に飲み込まれ、ある者は敵に討たれてしまう。

結局、わずか一刻ほどの合戦で源氏は大勝利をおさめた。平氏は重衡が生け捕られ、通盛、忠度、経俊、経正、敦盛、ら名のある武者で討たれた者だけでも、一千余人が梟首せられた。重忠の郎党の本田次郎も平師盛を討ち取っていた。ましてや名もなき者どもで討たれた者は数知れなかった。

それでも平氏の多くの諸将は船に逃れて四国を目指した。もちろん安徳帝もその中にあった。源氏は船の用意もなく、西国の武士たちの動向も知れなかったので一旦京都に戻ることになった。

あくまで力と力の戦いを望む重忠にとっては、合戦に際しての勢いの恐ろしさをまざまざと知らされた戦いだった。名乗り合い、一対一で組み合う。そうした局地的な戦いでなく、数万人規模の戦いでは、大きな戦略が流れを決するのだった。

そうした意味で、九郎義経の戦略の確かさには舌を巻く思いであった。が、同時にその危うさにも気づいていた。重忠にとっては、合戦はあくまで一個の人間のものであった。

その後、京に凱旋する諸将とともに重忠も一旦は京に戻ったが、九月二日には範頼に従って西国に進軍している。この軍事行動は糧食の補給もままならず、西国の武士たちの協力もなく失敗に終わり、重忠は東国に戻っていった。


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