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歴史小説 畠山重忠 その四

文治元年【一一八五年】正月、重忠は再び上洛した。

安徳帝と神器を奉じたまま西国をさまよう平氏に対して、京では和を望む声が大きかった。実際、平氏方からも神器と安徳帝の京への奉還が策されもした。

しかし、後白河院の平氏追討の決意は強く、たびたび頼朝の上洛を促している。結局、今回も頼朝は上洛せず、範頼、義経の両名に平氏追討の命を下す。

範頼は摂津の国神崎より兵船をそろえて山陽道に向かい、義経は同じく摂津の国の渡辺から四国の屋島を目指すことになった。義経に従うのは畠山重忠、和田義盛、梶原景時、大内維義、熊谷直実ら、二万数千騎。

十五日には船揃えをし、艫綱解いて出発しようとしたのだが、おりからの南風が激しくて船を出すことが出来無かった。義経を中心に武将たちは寄り集まって軍評定をはじめた。

「我々は船戦は不慣れで、合戦取り合いの訓練もしていない。どのようにしたら良いか、忌憚なく意見を述べられたい。」

義経の問いかけに梶原景時が答える。

「今回の合戦では、各々の船に逆櫓をつけてはいかが。」
「逆櫓とはいかなるものか。」
「逆櫓とは、船の舳先と艫に向かい合わせに櫓をつけること。馬は弓手へも馬手へも自由に回すことができますが、船はそうはいきません。逆櫓をつけることで、敵が攻めてきたならば舳先の櫓でもって引き、敵が弱まったならば艫の櫓で押し戻します。」

義経は景時の言を聞くと、はっきりと不機嫌になった。

「合戦というものは絶対に退くまいぞ、と思いつつも流れによっては退かざる得ないこともあろう。しかし、最初から退くことを考えて戦など出来ようはずもない。大体、これから合戦に向かうに当たって縁起でもないことをいうな。逆櫓を立てるならば勝手に梶原一党の船だけ立てればよい。この義経の船にはごめん被る。」「大将軍たるもの、攻めるときは攻め、退くときは退くことを知らなければなりません。ただ、攻めることのみ考えるのならば、それは猪武者と言って立派な大将軍とはいえないのではないでしょうか。」
「武者たるもの、家を一歩出たその時から、良い敵と組んで死ぬことだけを考えるものではないか。この義経は少しも命を惜しみはしない。貴殿が大将軍になった時は、すべての船に逆櫓をつけて、最初から命惜しみをすればよかろう。」

 義経は痛烈に景時を罵倒した。

「そもそも、景時ごときが主である義経に向かって、猪武者などと暴言を吐くことこそ奇怪なり。者ども、この景時をからめ取ってしまえ。」

伊勢三郎義盛、武蔵坊弁慶、片岡八郎が義経の前に進み出て、今にも景時に襲いかかろうとする。景時はこれを見て、

「軍評定で自分の意見を述べるのは武者の常の習い。平氏を滅ぼす戦いの謀を述べたこの景時を誅す、とあらば、それは鎌倉殿への不忠にしかず。大体、この景時の主は鎌倉殿一人なり。いつから九郎殿が景時の主になったのか。このことこそ奇怪なり。」

と叫び、弓に矢を差し食わせて義経に向ける。景時の子息たち、景季、景高、景茂も父の前に並び立った。義経は激怒し、太刀に手をかけて景時に斬りかかろうとする。

「この期に及んで仲間内にて合戦取り合いに及ぶとは穏便ならず。」

重忠は両者の間に仁王立ちになり、大音声にて制止する。義経は三浦別当義連に、梶原景時は土肥次郎実平に抱き止められる。

「そもそもこれから平氏討伐の軍を発するにあたり、このような様子を敵方が漏れ聞いたとしたら各々方はいかがなさるおつもりか。さらには、このようなことを鎌倉殿に聞かれるのも憚りあり。当座の狂言と言うことで両者ともお引き召されよ。退かぬとあらば、この重忠を討ち取ってからになされよ。」

重忠のもっともな言に義経は恥ずかしくなったのであろう、刀を収めた。そして、景時はそのまま一族をまとめ、範頼の軍を追って長門の国を目指した。

「都を出立したときにも申し伝えたように、少しも命を惜しまない者だけ義経に従え。」と、義経は再び皆の者に告げる。重忠をはじめとしてすべての武将は黙って義経に従った。

十六日、十七日と、南風はますます強くなり、兵船七、八十艘が岸にたたきつけられて損傷する。十七日の寅の刻になって急に雨が降り出し、南風がおさまって北風が激しく吹き出した。

「風は順風になったぞ。すぐに船を出せ。」と、義経は命じる。

「これほどの大風では船はだせません。もう少し風が弱まってから出すべきです。」水手、舵取りはそう言って船を出そうとしない。

「日よりもよく海も凪いでいる時に船を出したならば、平氏の方でも浦々に大軍を差し向けて警戒もしていよう。このような日和だからこそ、まさか源氏は渡って来まいと油断しているのだ。逆風に船を出せ、と無理を言っているのではない。言うことを聞かぬならば射殺してしまえ。」

義経の命に、伊勢義盛が中差しを弓に挿んで走り回ったので、しぶしぶ水手、舵取りも船を出した。しかし、数千艘の船の中で、この時出航したものは五艘のみ。一番は義経、二番は重忠、三番は土肥次郎、四番は和田義盛、五番は佐々木四郎。五艘の船に馬も載せ、兵糧も乗せる。従う下部、徒走りなども乗るのだから、総勢百騎余りの小勢で四国を目指すこととなった。

義経は自分の船だけに煌々と篝を焚かせる。

「各々方は我が船の明かりを追って船を馳せさせよ。篝は焚いてはならん。こちら側の船の数を敵に知られてはならん。」

五艘の船は岸を離れる。大木を折るほどの風の中、水手、舵取りの中には吹き倒されて立つことさえおぼつかない者もいる。しかし、屈強の武者たちが、指示に従って、帆柱を立て、碇を海中に投げ、舵を取って進んでいく。余りの風の強さに、帆の裾を切って風を通してさえ、船は波の上を飛ぶように進んでいった。

普段なら三日はかかるところを、わずか三時で阿波の国のあまこ浦に着いてしまった。一行は、その浦を守っていた阿波民部大輔成良の軍勢三百騎を蹴散らし、五十の首をあげる。生け捕りの者に聞いてみると、ここから屋島まではおよそ二日の行程。しかも、その間にはほとんど敵は陣を作ってはいないとのこと。さらには、あちこちに兵を割いて、屋島には戦える者は千騎あまりしかいない、ということを聞き出した。

義経は、「敵の準備が整わぬうちに攻めよや者ども。」と、先頭になって駆けだしていく。残りの味方の到着を待ってから、と思う者もあったが、百騎は一団となって屋島を目指した。

屋島の平氏方に、義経はすでにあまこの浦に到着し、夜に日を継いで屋島に向かっているとの報告が入る。

「源氏の勢六万騎なり。」
「鬼神のごときふるまいで海を渡ったという。」
「すでに討たれし者、数千騎という。」

流言飛語が飛び交う。

先帝をはじめとして、女院、二位殿以下、多数の女房、公卿殿上人をかかえる平氏方では、とりあえずこれらの人々を船に乗せ、沖へと漕ぎ出させる。二十日の卯の刻になって、義経は屋島の館を見下ろす峰に到着する。従う者はわずかに五十余騎。そのまま一斉に鬨をあげ、城の木戸を目指す。

木戸に設けられた櫓の上からは、能登守教経が征矢を射る。教経の弓は強く、数騎の武者がたちまちにして討たれる。「

平氏は多勢なり。味方はいまだ続かず。皆の者、火を放て、屋島の在家にことごとく火を放て。」

義経の命に、源氏の諸勢は、つぎつぎと火を放っていく。折からの西風は激しく、火は一時に燃え広がっていく。城内の軍兵は争いながらも船に逃げる。義経、重忠、土肥次郎、和田義盛、佐々木四郎、一騎当千の強者どもは縦横に駆けめぐって平氏の武者を討っていく。たまらず、海上に逃れた平氏方は、垣楯で厳重に取り囲んだ船を岸に寄せ、その陰から矢を射るばかり。

「我と思わんものは押し並べて組めや、組めや。」と、大音声に叫べども誰一人として勝負を挑む者もいない。

義経らは、渚に寄せた船の陰に馬の脚を休め、自らの息を整える。そうこうするうちに、かしこの峰、ここの洞穴からと、十四、五騎、二十騎と、平氏に背いて源氏を待ち受けていた阿波、讃岐の武者どもが合流する。さらに、義経を追ってきた味方の輩も馳せ加わり、ようやく三百余騎になった。

「もはや日が暮れる。勝負は明日だ。」と、義経が軍を退く命を下したところ、沖の方からとくに飾り立てた船が一艘、汀に向かって漕ぎ出してきた、

船の中には、十八、九歳の柳がさねの五つ衣に紅の袴をはいた美しい女房が乗っていた。そして、その女房は、みな紅の地に金の日の丸を押した扇を船のせがいにはさんで、陸に向かってまねくそぶりをする。

「あれはいかに。」との義経の問いに、

「射よ、とのことでございましょう。」と、後藤兵衛実基が答える。

「重忠を呼べ。」と、即座に義経は命ずる。重忠は義経の弓手の脇に進み出て畏まる。

「重忠、あの扇の真ん中を射て平氏に見物させよ。」
「君の仰せ、家の面目と存ずる上は、断るべきではないでしょう。しかし、この重忠は、打ち物取ってのはたらきは誰にも負けぬつもりですが、弓矢のことは別儀にございます。もしも射損じたならば、私だけの問題ではなく、源氏の恥になります。何とぞ他の者に仰せつけください。」

重忠が辞退したので、周りの者は皆色を失う。あの重忠が自信がないというのであれば、誰があの扇の的を射抜くことなど出来よう。

「さて、誰かはあるべき。」義経の問いかけに重忠が答える。

「お味方の中に、下野国の住人、那須太郎助宗の子、十郎兄弟があるはず。この兄弟はいずれも、強弓、遠矢ともに並ぶ者はない腕前の持ち主。」

重忠のきっぱりとした言いように、その兄弟ならば必ず成し遂げるだろう、と皆は思った。兄弟のうち兄の方は、鵯越の逆落としで弓手の肘を巌に打ちつけた傷が未だに癒えない、ということなので弟に下知が下った。

弟の名は那須与一宗高。生年十七歳。色白く、小髭生え、弓の取り様、馬の乗り様、いずれも優美なる仕草であった。兜を小童に持たせると、馬を汀に向けて進める。

矢ごろが少し遠かったので、一段ほど海へ馬を入れる。それでも扇までは七段ほどもあり、しかも船は揺り上げ、揺りすえ波にただようので、扇はくしに定まらなかった。

沖では主上をはじめとした平氏の軍船が、赤旗を潮風に翩翻と翻して見物する。陸では源氏がくつばみを並べて見物する。

「南無八幡大菩薩。日光の権現、那須の湯浅大明神。願わくば、あの扇の真ん中を射させたまえ。」与一は目をつぶって祈った後、かっと目を見開いた。そして、鏑矢をとって弓につがえ、よっぴいてひょうど放った。

十二束三伏の鏑矢は、浦一体に響くほど長鳴りして、扇の要ぎわ一寸ほどの所を、ひぃふっと見事に射きった。扇は空に舞い上がり、ひらひらと虚空をひらめいた後、海へさっと散っていく。

あまりのすばらしい技に、沖の平氏は皆、船端をたたいてさんざめく。陸の源氏はえびらをたたいてこれに応じる。重忠も実にうれしそうに与一宗高を眺めている。

さて、与一の弓へのお返しのつもりなのか、船の中から五十歳ほどの黒皮威の鎧を着た老武士が出てきて、白柄の長刀を持って舞い始めた。

伊勢三郎義盛は、那須与一宗高の後ろまで馬を進め、「義経殿の命令である。あの武士を射殺せ。」と命じた。

与一は、中差しを取って弓につがえ、よっぴいて放つ。矢はあやまたずに老武士の首を射切り、船底に逆さまに倒れていく。

「良く射た。」と言う者もあったが、重忠は、「情けないことをなさるものだ。」と、がっかりした。

平氏の方では、三人の武者が汀にこぎ寄せて、かたきを討つべし、と攻め寄せてくる。これに応戦する源氏方の様子を見て、さらに二百余騎がなぎさに上がり、楯を隙間なく並べて矢を射る。しかし、ほとんどの兵が馬には乗らず徒歩であったので、源氏の騎馬武者が駆け寄せると、馬に踏みつぶされてはたまらない、と船に乗って逃げてしまった。

結局、そのまま日が暮れてしまい、戦いはそれまでとなってしまった。寝る間もなく駆け続けてきたので、源氏の武者たちは死んだように眠ってしまう。平氏の方ではこの日に夜討ちをかけていたならば、義経や重忠の首を討てていたかもしれない。だが、翌日になって、続々と馳せつける源氏の軍勢を見て、平氏は瀬戸内を西に去っていったのだった。

この屋島の合戦からほぼ一ヶ月後の三月二十四日、壇ノ浦にて平氏はことごとく海の藻屑と消えてしまう。

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