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建保の騒乱 その後

建保合戦の余韻も収まり、焼け果てた御所の再建の槌音も響き始めた頃、鎌倉を密かに旅立った一人の僧形の男があった。男は京に上った後、高野山に登り、そこの小さな塔頭で仏道修行に励んだ。世間との交わりをいっさい絶ち、目立たぬながらもその修行に打ち込む姿は真摯であった。  

そんな男の上を静かに十年の歳月が過ぎていった。突然、鎌倉で実朝が暗殺された。その首が、紆余曲折の末に、高野山に運ばれて来ることになった。首は、新たに建立された金剛三昧院に納められた。首の供養を見届けると男は高野山を下りた。  

男が山を下りるのを待っていたかのように京で合戦が起こった。危うい均衡を保っていた鎌倉方と京方の糸が切れたのだった。ピンと張った糸を懸命に支えていた実朝はこの世にいなかった。建保の争乱に際して、和田一族を裏切って北条方についた三浦一族は、兄の義村が鎌倉方に、弟の胤義が京方に立って戦った。  

京方の劣勢はいかんともしがたく、三浦胤義は、宇治、勢多の合戦で首討たれた。そんな中、男は意を決したかのように、僧形のまま長刀を手に、京方に立って合戦に加わっていった。血走った目で戦場を駆けめぐり、男は三浦義村の姿を追った。だが、結局は義村を討つことは出来なかった。  

男は今度も死にきれずに合戦を終えた。北条義時が死に、政子も死に、三浦義村も死んだ。それでも、男は生き続けた。男は、故将軍家の未亡人である坊門の姫君が、出家して尼となり都に戻ってきているのを知り、その寺に下働きの小者として入り込んだ。男にとっては、やっと落ち着く場所を見つけたかのようだった。  

だが、そんな日も長くは続かなかった。安貞元年六月十四日。建保の争乱から二十四年後、和田義盛の嫡孫、和田朝盛は、六波羅の役人によって捕縛された。 すでに、二十数年前に鎌倉を朱に染めて戦われた合戦を覚えている者とてなかった。男の罪状は、建保の争乱での謀反ではなく、承久の乱にて京方に与したことであった。

六波羅での取り調べの後、鎌倉に護送された男は、由比ヶ浜で首を切られることになった。  

海はおだやかだった。男の脳裏に、幾艘もの船を浮かべ、三浦岬まで管弦を奏でながら逍遙した朧月の一日が思い浮かんでいた。将軍家も、御台所も、そして義盛の爺も父も、みな船上で笑っていた。

二十数年ぶりに耳にした鎌倉の波の音を聞きながら、彼はやっと本当の安息の日々を手にしたのだった。

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