見出し画像

歴史小説 畠山重忠 その一

秩父の山々は緑にあふれていた。その山々の背後には澄み切った青空が広がり、その爽やかな空気の中を一人の若武者が馬を駆って行く。

六尺を超える立派な体躯を持つこの若武者の名は畠山次郎重忠、十七歳。

畠山氏は代々武蔵の国の総検校職をつとめる家であり、重忠はその畠山氏の現当主重能の嫡男である。今、重能は京都に大番役に上っており、重忠が武蔵の国の棟梁として父の留守を守る立場にあった。

しばらく馬を駆けさせた後、重忠は道の傍らに流れる小河に馬を休ませた。その重忠を半沢六郎成清が追ってきた。成清は重忠より二歳年上の乳母子で、重忠が最も信頼をおく郎党であった。

「若殿。たった今、江戸重長殿からの使者が見えられました。」
 成清は馬を降りると、流れる汗を拭いながら重忠に近づいていく。
「それで、使者はなんと伝えてきた。」
「頼朝殿の使者が重長殿の所に参ったそうです。」
「なんと申してきた。」
「頼朝殿の使者が申すには、一族等を率いて帰伏すべし。さらには、河越、畠山、豊島、葛西、等にも帰伏を勧告すべし、とのこと。」
「はて、なぜ江戸重長に我ら武蔵党の帰伏を命ずるのであろう。武蔵の総検校職は父畠山重能のはず。」
「察するに、重能殿は京に上られて留守、若殿はいまだ若輩者と思われたのでは。」
「だが、それならば秩父の家督、河越重頼に使者を立てるべきであろう。」
「頼朝殿はなかなかの策士のようです。畠山、河越、を無視して江戸に使いを送ることで、武蔵の武士団の団結を妨げようと意図してのことと思われます。」
「そうか。それにしてもどうしたものか。頼朝殿はすでに上総、下総をまとめ、総勢二万数千騎で隅田河畔に陣を敷いたとのこと。例え我ら武蔵の国の武士が団結したところでとうてい太刀打ちできるものではない。」

重忠は馬に飛び乗ると、
「成清、ついてこい。今しばらく駆けるぞ。」
と言うが早いか駆けはじめた。成清もそれを追う。草いきれの立ちこめる草原を二騎の主従は疾駆していく。

治承四年【1180年】八月十七日、伊豆の源頼朝が源氏再興の兵を挙げた。平氏方の大庭景親は、相模、武蔵の武士団に檄を飛ばした。源氏の嫡流とはいえ、一介の流人に過ぎない頼朝などすぐに滅ぼされるに違いない。誰もがそう思った。畠山党も重忠に率いられた五百騎が景親の命に応じて相模の国を目指した。

八月二十三日、頼朝は石橋山にて大庭景親に散々にうち破られ、ゆくえ知らずになる。畠山党はこの戦いには間に合わなかった。しかし、頼朝に合流すべく本拠地の三浦半島から出張っては来たものの、雨で増水した河に阻まれて果たせなかった三浦党と、二十四日、鎌倉の由比ヶ浜で偶然に行き会ってしまう。

重忠の母は、三浦党の棟梁、三浦大介義明の娘だった。小坪の峰々に布陣した義明の孫たち、和田義盛も三浦義村もみな重忠の従兄弟だった。お互いに合戦を避けようと言う雰囲気の中、和議が結ばれ、三浦党は陣を引き始めた。

その時、鎌倉の杉本城にいた和田義盛の子、杉本太郎が遅れて参陣し、状況を勘違いしたまま畠山勢に切り込んでいってしまった。和議が結ばれたことに気を緩め、由比の浜に打ち寄せる波に馬の脚を浸していた畠山勢はたちまち混乱し、二十騎ほどが討ち取られてしまった。

だまし討ちにあった、そう思い憤怒の形相で畠山勢は三浦勢に攻撃を仕掛けていった。和議に気を許し、帰途を急いでいたのは三浦勢も一緒だった。突然の畠山勢の襲撃になすすべもなく、ある者は討ち取られ、ある者は一目散に逃げた。結局、三浦方は多々良重春ら多くの者が討ち取られ、畠山方も五十人を討ち死にさせた。

畠山勢は騎虎の勢いで、小坪を越え、逗子、鐙擦、葉山、木古庭を通って三浦勢を衣笠城においつめていった。重忠は、河越重頼、江戸重長ら後を追ってきた武蔵の武士団の加勢を得、三浦氏の本拠である衣笠城に二十七日に総攻撃をかけた。

勇んで国を出てきたものの、頼朝はゆくえしれずになってしまい、何の手柄も立てられずにむなしくしていた河越氏、江戸氏の武士たちは、ここで手柄を立てねばと奮戦した。衣笠城は数刻と持たずに落ち、三浦党は船で房総を目指して落ちていった。

ただ、三浦大介義明だけは、
「今、源氏再興の時に会い、よろこびにたえない。ここで命を投げ出して、子孫の勲功を増やそうと思う」
と、一人城に残って八十九歳の生涯を終えた。

それから一月とたっていない。それなのに情勢は一変していた。海路安房に逃れた頼朝は、上総、下総の武士たちを糾合して二万七千騎の勢力で武蔵の国をうかがいはじめたのだ。

しばらく馬を駆けさせた後、重忠は馬の歩みをゆるめた。成清がその横に並ぶのを待って、
「成清、そなたはいかが考える。」と、問いかけた。
「はい。」成清は即座に答える。
「我らは確かに小坪の合戦、衣笠の合戦と、平氏方に立って三浦党と戦いました。しかも、お祖父様の大介義明殿を討ち取っております。しかし、弓矢とる身では、父子、兄弟、それぞれが敵味方に分かれて合戦するのは世の常。保元の合戦に際しての義朝殿もしかり。とにかく早々に頼朝殿の所に参上し、何事も若殿自ら言上されるべきかと。」
「義明殿を討ち取られた三浦党が我らを許すだろうか。」
「和議の約束を破って攻め寄せてきたのは三浦の殿原なのです。そのことをとくと頼朝殿に説明すべきかと思います。若殿が遅参されれば状況は悪くなるばかりでしょう。確かに、重能殿が京に上られている今、我らが関東で源氏方に転じれば、重能殿は平氏方に殺されるかもしれません。しかし、このまま頼朝殿の軍勢をこの菅谷の館にむかえても、一身、一家をあげて討ち死にするのは必定。」

重忠は遠く武甲山の山容を眺めながら成清の言葉に耳を傾けていた。
「若殿。平氏の恩は一旦のもの。源氏の恩は四代に渡っております。ここは頼朝殿に帰伏するのが最善かと思います。」
「成清。俺は源氏だ平氏だというのはどうでもいいのだ。とにかくこの畠山の地を他人に渡したくないのだ。父上が留守の間にこの地を奪われるようなことだけは避けたい。俺の命と引き替えにこの地を守れるものならいくらでもくれてやる。」

重忠は馬首を廻らすと再び駆けさせた。そして、菅谷の館に戻るとすぐに一族のもの、郎党、諸従等を館に参集させ、頼朝殿に帰伏することを告げた。

十月四日、重忠に率いられた畠山党五百騎の精兵は、白旗、白弓袋を先頭に差し上げて頼朝の陣を目指した。重忠は、青地錦の直垂に赤威しの鎧を着て、鬼栗毛という馬に、巴摺ったる貝鞍を置き、糸ぶさしりがいをかけて乗っていた。

その姿を見たものはみな、
「生年十七歳といいながら、その容儀事様、実に一方の大将軍と見えたり。末恐ろしい若武者かな。」
と嘆息した。

白幔幕を張り巡らした本陣に案内され、御前に進み出た重忠を見た頼朝も、そのすがすがしい容儀に一瞬「ほっ」と言葉が出た。
「畠山次郎重忠。」
「はっ。」
頼朝の呼びかけに答えた重忠の声があたりを圧した。
「その方の父、重能。叔父、有重。いずれも平氏の方人として京にあり。すでに平維盛らに率いられた軍勢が京を立ち関東を目指しているという。重能、有重、いずれもその軍の中にあるやもしれず。その方、父や叔父と引き別れ、敵対する覚悟があるように見えず。ましてや、小坪の合戦にて我ら味方に弓矢を引き、その上、今日の参陣にあたり、源氏の嫡流である頼朝にのみ許されし、白旗、白弓袋を堂々と押し立てて参るとは、愚かな振る舞いと思わぬか、重忠。」

重忠は頼朝の問いかけに臆することなく答える。

「小坪の合戦のことは、私の宿意は全くなく、お互いの誤解の結果、不慮の合戦に及んだ次第。このことは、三浦の皆さまにお尋ねあればよくおわかりいただけるはず。また、父や叔父と敵味方に別れるとも、重忠、君の御為とあらば、先陣きって合戦仕る覚悟は出来ております。」
「旗のことはいかん。」
「かの白旗は、私の結構ではありません。君のご先祖である八幡太郎義家殿が、後三年の合戦の際、清原武衡、家衡を金沢の柵にて攻め滅ぼされました。重忠より四代前の秩父の十郎武綱は、その合戦にてこの白旗を賜り、先陣を勤めて凶徒を誅し候。それ以来、この白旗は我が家に相伝され、近くは君の兄君である悪源太義平殿が、上野の国大蔵の館に多古の先生を攻めるに際しても、重忠の父重能がこの白旗を差して共に攻め落とし奉ったもの。すなわち、源氏のためには縁起の良いお祝いの旗として、先祖代々の吉例に従って差して参ったもの。」

重忠の篤実な立ち居振る舞いによって、頼朝だけでなくその場に居合わせた武者たちの誰もが重忠に好意を持つにいたった。
「土肥実平、千葉常胤、両名のものいかが思う。」頼朝は判断をその場に居合わせた二人の有力豪族に投げかけた。
「畠山殿を御勘当すること有るべからず。彼の者の申すこと、一々実法にして腑に落ちました。」
「私も実平殿と同じ意見でございます。畠山殿は向後も我らのお味方として一方の大将軍を承るべきお方と思われます。さらに、畠山殿を御勘当あらば、武蔵、相模の武士どもはみな、畠山殿でさえ許されないのであれば我らは当然許されないだろう、と参陣する者もなくなるはず。」

頼朝にしてもここが節所であった。上総、下総の軍を率いているといっても寄せ集めに過ぎなかった。頼朝に直属する軍勢など全くない今、武蔵、相模の武士団を源氏方に糾合するためには重忠の帰伏は是非とも必要であった。
 平氏の方人として武蔵の国の総検校職をつとめる重能の嫡男でさえ頼朝に味方するのであれば、我らも味方しよう、そう思わせることができるのだった。しかも、平氏方の頼朝討伐軍がすでに関東を目指して進んできている。一日も早く武蔵、相模を平定し、平氏の軍を迎え撃たねばならない。
「そなたの申すところいちいちもっともなり。頼朝が日本国を鎮めるあたり、重忠、そなたはすべての合戦で先陣をつとめるべし。ただ、その方の旗はあまりに頼朝の旗に似ているので、向後はこれを押せ。」

頼朝はそう言って、藍色に染めた細長いなめし皮を一片賜った。これ以後、畠山党の旗のしるしには、小紋の藍皮を押すことになった。いずれにしても、重忠は畠山党の危機を救っただけでなく、十分に面目をほどこし、頼朝のもとに参集した武士たちにも、畠山次郎重忠の名を心に刻ませたのだった。

重忠の帰伏が功を奏し、武蔵、相模の武士たちは我も我もと頼朝のもとに参じた。頼朝はそれらの武士たちを吸収しつつ、相模の国に入り、ひとまず源氏にゆかりの深い鎌倉を目指すこととなる。もちろん、三万騎にふくれあがった頼朝勢の先陣は畠山次郎重忠が承り、堂々の鎌倉入りを果たしたのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?