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違うグレーに染まっていきたい

親友というものがずっと羨ましかった。

小学生の頃、ちびまる子ちゃんに出てくる大野くんと杉山くんの関係性や、キャプテン翼の翼と岬くんの関係性に憧れた。




当時の僕は、恐れを知らなかったからか、初めてのクラスメイトでも「おれ水口、友達にならない?」と軽々言えたものだ。
特に仲の良い友人とは、学校が終わった後、いつもの公園で「オレたち親友だよな!」なんて語り合うこともあった。
憧れに近づくためにいちいち関係性を定義して、安心していたのだろう。

ただ、無敵の精神状態は長く続かなかった。

中学入学と同時に、学区の関係で僕は多くの友人と離れることになってしまったのだ。

いつも仲良くしてくれていた友達の代わりに教室を埋め尽くすのは、他の小学校から上がってきた生徒ばかり。
小学校から一緒に上がってきた彼らのすでに出来上がっていた人間関係を見て、この学校ではうまくやっていけないだろうと悟ったことを覚えている。


友達を頑張って作ろうという気概が失われてしまったからなのか。
当時の記憶は今となっては、ほとんどもう思い出せない。


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あれだけ親友だと言い合っていた友達との連絡手段も絶たれ、中学校での心は一人。
生活の90%を学校が占めていた僕にとって、
仲良さそうにはしゃぐクラスメイトは、世界から僕を置いてけぼりにした。


小学校で親友と呼び合った友達も自分の知らないところでもっと仲の良い人と出会っているのだろう。悲観的な気持ちは、よく見るM-1決勝のトップバッターのそれと似ていた。激しい順位入れ替えの末、たちまち僕は親友という枠から脱落していく。


自分の居場所はここにない。そう感じることが多くなるのと同時に、
人付き合いにおいて「どうせ僕はいつか脱落していくのだろう」と一種の諦めを感じるようになってしまっていた。

直接的に仲間外れにされたわけではないはずなのに、心の中に居座る中途半端な疎外感。いつも僕は一人だった。


高校大学と、しばらくの間はこの疎外感に悩まされながらも、自己陶酔しながら恥ずかしく生きてきた。適度に誘いを断って、望んで一人になることもしばしば。
大学の工芸室に籠もって表現に身を投じている時間が何よりも幸せだった。
人との関係性の中で自分の存在価値を見出す気持ちになれないから、一人で何か作品を生み出す。自分の生きた証を形にすることが唯一の存在理由で、仲よさそうに楽しんでいる友人たちに対する一種の対抗手段だったのだと思う。

何も羨ましくなかった。


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会社員として働き始めてからの人間関係は気楽に感じた。
人との会話に大体ビジネスの匂いが纏わりついていたから。初めてあった人に聞かれる「どんな仕事されているんですか?」とか、名刺交換から始まる挨拶。
そこが仕事として訪れた場所であるか、そうでないかにかかわらず、どこかで仕事のことを考えている人がたくさんいる。

一緒に仕事できる人を探している人もいただろうし、仕事からその人の生活を想像する人もいただろう。
今まで生きた中で形成されたアイデンティティとは別でぶら下がるタグ。人間関係における仕事の位置づけは僕にとってそんなイメージだった。

自分という人間が持つ性質ではなく、所属や実績で判断される毎日。時々寂しいなとは思う一方で、居場所だとか、疎外感とか、今まで感じてきたしがらみをいちいち考える必要はない。
そう考えると人間関係で傷つくことがめっきり減った。

いい気分ではなかったが、気楽だった。

気づくと僕自身も、利害関係の上に成り立つ人間関係を構築するようになってしまった。

初対面ですぐ人に渡してしまう名刺。
口をついてでる「普段はどんなことされているんですか?」という言葉。

その場にいる人がこれまでどんなふうに生きて、何を感じてきたか。
聞くより先に、自分の所属を示すことで張られる傷つかないための予防線。

痛みから逃げるのが上手くなったって、いいことなんて何もないのに。

簡単なことがわからない毎日だった。わかろうとしなかった。



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それからの毎日は「変わることは必要ない」とまで思う日々で、
たくさんの言葉をもらっても僕が変わることはなかった。

こんな自分に「味方」だと言ってくれる人の言葉にも耳を塞いでしまっていたのだ。

その人の周りで過ごす人のあたたかさ、柔らかさ、真摯さ、丁寧に紡がれた関係。

僕の現在地からそこまでの距離はあまりに遠く、その現実を直視するたびに、心が折れそうになって、ただ一言、羨ましいとすら言えない。

「僕とは違う」と一線引いて無理に納得しようとする。
虚栄心で塗り固められた自分がダサくてたまらない。

それでも、何もかもを否定しなくては、自分を保てなかった。
否定することと意志があることを同一視していたから。

人を傷つける行為ってな、一瞬は溜飲が下がるねん。でも、一瞬だけやねん。そこに安住している間は、自分の状況はいいように変化することはないやん。他を落とすことによって、今の自分で安心するというやり方やからな。その間、ずっと自分が成長する機会を失い続けてると思うねん。かわいそうやと思わへん?あいつ等、被害者やで。俺な、あれ、ゆっくりな自殺に見えるねん。

引用:「火花」又吉直樹

僕がしていたのは「ゆっくりな自殺」だった。



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言葉も、時間も、優しさも、あらゆる物に質量があって、それが人という器の中に溜まっていく。

ここ最近、劇的な何かがあったわけでもないのに、あの頃かけられた言葉や、これまでの時間が、「手を差し伸べてくれていたのだ」と気づくに至った。ずいぶん時間がかかってしまった。

やっぱりまだ名刺をすぐ人に渡してしまうし、
「普段はどんなことをされているんですか?」という言葉もそう簡単に抜けたりしない。
人のことを本気で知りたいと思えるか、人の痛みを理解しようと心を寄せられるのか、自分の考えていることにすら懐疑的だし、丁寧さにも、あたたかさにも、真摯さにも自信はない。

ただ、何かが動き始めたおぼろげな手応えがある。変われなさを内在させながらも。


この中途半端な状態が今の僕なのだ。



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変化のほとんどはグラデーションだ。

生きていく中で「変わる」ということは必ずしも裏と表、白と黒の話とは限らない。黒に近いグレーや、白に近いグレーだってある。

人と過ごした時間、かけられた言葉、見てきたものや、感じたことが
コップの中に少しずつ溜まっていく。それらが溢れた時、初めて人に変化が生まれ、色を染めてゆく。

だから、全て無駄ではない。

かけてくれた言葉で、すぐ変われないかもしれない。
一緒に過ごした時間の間に、変わることができないかもしれない。
どこかで元々の自分が持つ変われなさも認めなければならないかもしれない。でも着実に変化は始まっている。前触れになっている。

少しおこがましいかもしれないけど、見ていて欲しいと思う。

変わることを焦ってはいけない。

虚栄心や羨ましさ、中途半端な自分を認められた今が始まりだ。

時間がかかるかもしれないけど、今とは違うグレーに染まっていきたい。


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