(240304a) 心の目が明るい奴になれ。(立場を入れ替えても論理の矛盾が無い奴)。

かなり以前に、このような記事を書きました。


心の目が明るい奴、というのは、
言い換えるならば、聡明な奴。という意味です。

狡猾な奴は一見、頭が良くずる賢い奴で、始末に負えないと思われている。
このタイプは、たぶん、その主張する論理において、立場を入れ替えると、
論理の矛盾がヒドイ事に、気付く様な類いの人です。
それに対して、聡明な人というのはその主張の論理の立場を入れ替えても、
矛盾がほとんど露呈しない人です。

聡明な人、と、狡猾な人、では、
かなり完成されている人であるならば、たぶん、
聡明な人の方が、抜け目が無い人になるだろうと、思います。
狡猾な人というのは、つまり「ずる賢い」ですから、
その「ズルい」という点が、当人の足を引っ張ります。
何故そうなるか?
それは狡猾な人は、自分の立場だけを有利にしようとする余り、
立場を入れ替えた論理では矛盾が出やすい、
セコイ手段を自分の主張の論理の中に加味している。だからです。

三国志で言うならば、
諸葛亮孔明は、相当心の目が明るかった人だと思います。
司馬慰仲達も、かなり、明るかった。
ただし孔明の明るさには敵わなかった人だと思います。
聡明な人だからと言って、セコイ手を絶対に使わないか?という点では、
「違う」と言えます。
それは、諸葛亮孔明が司馬慰仲達に、「(女が掃く様な)靴」を、
司馬慰仲達に、戦場での手紙と供に送った逸話があります。
これは、諸葛亮孔明の戦略の凄さに、臆病風を吹かせた司馬慰仲達が、
陣を引いて、孔明と一戦交えずに、堅牢な要塞に閉じこもってしまった。
そうした時、勝ちたかった孔明は、仲達を苛立たせて、戦場に出て来るように、仕向けました。それが、女物の靴を仲達に贈るというモノでした。
贈られた仲達は、かなり苛立ち、一戦交えようとしましたが、結局、
その苛立ちを抑え込み、堅牢な要塞に閉じ籠り、孔明の消耗を待ちました。
孔明としては、その消耗戦には耐えられなかった為に、結局、
軍配は、仲達に上がりました。孔明が負けたんです。

このエピソードでは、孔明が、相手の仲達を、十分に思い遣っていれば、
女物の靴を贈るという事はしなかっただろうと、思います。
孔明としても、焦りがあったんだと思うのです。

以上の様なエピソードからも言えますが、
聡明で抜け目が無い人でも、
セコイ手を打たない事が絶対に無いとは言えない。

結局、自分の立場の優位を完全に捨てて、事情が相手に有利ならば、
相手にその利や有利を明け渡してしまう人が、
完全に聡明な人だと思います。
そういう意味では、孔明も、自らの勝ちに捉われていた人だった。
それが有ったから、仲達に孔明は、肝心な時に負けたのでしょう。

それでも、諸葛亮孔明は、かなり心の目が明るい人だったとは思います。

自他の立場を入れ替えても論理の矛盾が少ない奴が、明るい奴。
であり、
自他の立場を入れ替えても論理の矛盾が多い奴が、暗い奴。
だと思うんです。

そういう括り(くくり)にすると、
ほとんどの、狡猾な奴は、「暗い奴」に分類されます。
自分の立場ばかりを考えて居るからです。
自分の立場の有利を考えて、ムリヤリ自分の立場を有利にしようとする。
そして、その論理の導出に、無理が在る為に、その為に、論破されます。
それに対して、(真に)「明るい奴」は、
自分の立場の有利を、ほとんど考えません。
ムリヤリ自分の立場を有利にしようとはしないんです。
だから、不利ならば不利を被るし、損な選択をする事もあります。
そんな人が、自分の有利を導く方法が無くも無いです。
それは、自分の立場が有利になった方が、
相手にとってさえも利益になる状況を作り出す事だろうと、
思います。

だから、皆さん。
自分も他人も幸せにするには、
「(心の目が)明るい奴」になるべきです。
こういう人は、一見お人好しにさえ見えますが、
かなり深刻な戦いでも、勝ち抜ける人です。

皆が皆、そういう心の目が明るい人になったならば、
この世界は、どんなに素晴らしいモノに成るでしょうか?

だから、皆さん。「心の目が明るい人」になりましょう。みんなで。

以上です。