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今。僕はカヌレに夢中です。

僕は今、徳島県でカヌレを焼いてます。
カヌレを焼きはじめて4年目です。

いつの間にか徳島に移住して
よくわからないままお店をオープンしました。

昔からの知り合いの方や僕を知ってる方からすると、「ん?」って感じでしょう。
そう。僕はそれまでは全く違う道を歩んできてたから。

ただ、気づいたらこんなことになっていたので

これまでの経緯を
自己紹介がてら簡単に振り返ってみようと思います。


学生時代

特に何かに夢中になるわけでもなく、平凡な日々を過ごしてました。

頭をあまり使っていなかったせいか、ほとんど記憶がないのが本音です笑

なんとなく高校に行って、大学に行って、やりたいことや自分が何をしたいのか全くわかってなかった。

けど何か不満があったわけではなかったし、毎日楽しかった記憶はある。

そんな僕でしたが、
大学在学中に出会った本の影響もあり海外への憧れを抱き始め、20歳の時
大学の休学制度を使い、ワーホリビザにてカナダへ行きました。

1年の予定でしたが、当時の僕は色々なめてていたのもあり僅か半年で帰国。
そしてしばらく海外へ行くことがトラウマになりました。

会社員(自動車メーカー勤務)

大学卒業後、特に迷いもなく自動車メーカーに入社。
(東海地区の理系はやっぱり自動車業界が多いイメージ)

入社して1年が過ぎようとした時。

やっぱり海外に行きたい。カナダでうまくできなかった自分を払拭するには同じ海外でしかできないという思いから

Peaceboatに乗ることを決めました。
(街中にポスターが貼ってある船で世界一周のやつ)


オマーン

この頃から、自分の中で何かモヤモヤすることが生まれてきたのを覚えている。

仕事を辞めて乗船する予定でしたが、当時の上司のおかげで4ヶ月間の休職をさせてもらうことになります。

今考えるとあり得ない気がする。

あの時は、本当にありがとうございました。

4ヶ月間の休みを経て会社に戻った僕は勤めていた会社のアジア地区の一員となりました。
メインはフィリピンの工場を担当として働くことになります。
日本とフィリピンを行ったり来たりの生活を約3年間しました。


フィリピン時代の仲間たち

この期間は自分史上最大に学びました。
そして何より
フィリピンでは恩人と呼べる方と出会うことができました。

海外での働き方、生活の仕方はもちろん

部下のこと。誰かと働くということ。
会社員である前に人として大切なこと。
家族のこと。
そして自分らしく生きること。
他にも色々。

当時取っていたメモは今でも見返すほど
僕にとって大切な教えになっています。

フィリピンでの仕事がひと段落したころ、僕には一つの小さな夢ができていました。
それは、自力で世界一周をすること。

27歳でできた人生初めての夢。

正直このまま会社に残ればそれなりに待遇の良い生活ができるだろうと思ってました。
けれど、今世界を見ておかないと一生後悔しそうな気がして退職して夢の世界一周へ出発します。

世界一周へ

出発前に決めたことは3つ

・ルートは東回り。
(アメリカ大陸からアフリカ、ヨーロッパにわたりアジアに戻るルート)

・できる限り夏を追いかける旅。
(荷物をできる限り少なくするため)

・予算の200万か500日のどちらかが終わったら帰国すること。

なぜ500日か。

当時は30歳までなら再就職に都合が良いと言われていたからです。

結果は

のんびり移動しすぎた僕はアジアを旅した後に北米から南米へ下りブラジルに到着した時には決めていた500日は過ぎ、予算も尽きかけてました。
(詳しいルートや内容は長くなるので別で書こうと思います。)


ペルー マチュピチュ


自分が思っていたよりも何倍も世界は広くて、楽しくて、ワクワクで本当に幸せな時間。
何より初めて自分で決めたことを実現できた時間。

この時間を終わらせたくない。

えっ?

まさかの

僕はブラジルから日本への航空券ではなく、オーストラリアへのチケットを購入してました。

実は当時の旅人の中で、オーストラリアは稼げる。
日本より条件が良いという話があり、お金の尽きた旅人はオーストラリアへ行くのがスタンダードになってました。多分。

ワーホリでオーストラリアへ

オーストラリアではブリスベンを拠点に選びました。

挫折して帰国したカナダへのワーホリから10年が過ぎていました。
払拭するには最高の機会。

同じワーホリのビザで入国し、次こそはカジノで溺れないぞ。
(実はカナダではカジノに溺れてお金が尽きてました。)

しかし、オーストラリアでなかなか仕事が見つけられず、見つかってもクビになることもありました。

「明日から来なくていいよ」って言われた時。

絶望して帰った帰り道の景色は今でもはっきり覚えてます。

資金も本当に底をつきかけ、もうダメだと思っていた時に
ある飲食店のオーナーシェフと出逢います。

日本への帰国を考えていたため、会う約束をしていたが迷惑になると思い断りの電話をしたところ

「とりあえず会ってみようよ!」
と言ってくださいました。

結果、飲食店での経験のなかった僕を気に入ってくださり受け入れてくださいました。

最初は洗い物からスタート。本当に嬉しくて、狂ったように働かせてもらいました。

おかげで最終的には料理も覚えさえてもらい3年間オーストラリアで働くことができました。

色々あり、スタッフの方達とぶつかったりすることもありましたが、とても感謝してます。本当にありがとうございました。


オーストラリア ゴールドコースト

いつの間にか3年間もいたブリスベン。
当初の目的だった出稼ぎ以上のものを得ることができました。

それにしても、自分。痩せてる。

えーっと。
そうだ。

世界一周の続き

世界一周再開

さてオーストラリアを離れ、3年ぶりに南米戻ります。

途中だった旅を再開しました。


アメリカのどこか

それから約1年かけて
南米から北上しアメリカからヨーロッパにわたりアジアを巡り無事に帰国することができました。

27歳の時、500日で帰ってくると決めて出発した僕は33歳になっていました。

やばい。
日本に戻ってきたけど、どうしよう。

徳島へ移住

実家のある愛知県に戻った僕は混沌とした名古屋での生活への恐怖と地方への憧れから、すぐに徳島県への移住を決めました。

徳島では何年もふらふらとしていた、何者かもわからない僕に救いの手を差し伸べてくれた方と出逢うことができました。

ハレとケデザイン舎の代表である修子さん。

それから2年間雇っていただき一緒に働かせていただきました。

その間は一緒に住ませてもらい、たくさん学ばせてもらいました。
大切なことを教えてもらいました。色々な経験をさせてもらいました。恋愛についてもたくさん相談しました。

代表であるのに距離も近くて話しやすく僕にとっては家族なような。お姉ちゃん的な。
(修子さん勝手にすみません笑)

感謝しても仕切れないほどです。

もちろん今でも修子さんから学ばせてもらったり。刺激をもらったり。してます。

その後は、暖簾分けという形で独立をさせていただき今に至ります。

長くなりましたが
カヌレを焼いている人はこんな人です。


偶然カヌレに辿り着いたのか。
辿り着くべくして辿り着いたのか。

それともこれから何かにたどり着くまでの過程なのか。

それは何年後かに振り返った時わかればいいかな。

今はとにかくカヌレに夢中です。

いつか本場フランスでカヌレを販売できる日を夢見て。

ここまで読んでくれた方は何人いるんだろうか?

長々と読んでいただきありがとうございます。

店舗:https://www.instagram.com/haretoke.cs/

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