見出し画像

いい写真という言葉遊び

Midnight diary #3

いい写真とは何か。
最近、僕の周りではそんな話をよく耳にする。
一言でいい写真といっても、場面や意図によって異なってくるし、明確な基準があるわけでもないのでとても難しい話だ。
その一方で、人間はそういった曖昧さを許すことができない。どうしても定義付けしたくなる生き物だから、このような疑問が湧くのも仕方ないと思う。

この類の話が出たとき二言目に出る言葉は決まっている。「いい写真かぁ…難しいよねぇ」だ。
前置きとして言うと、一般的には自分のいいは誰も保証してくれない。
こういった場合、理由や意味を外側に求めがちだが、それは表面の結果に過ぎず、それを深く考えようとするからより難解なものにしてしまう。
いつも一緒にいる家族の気持ちですら分らないように、他人の内面を考えたところで一生かかっても分からない。
しかし、自分のいいは自分でわかる。
結局のところ、自分のいいを信じてあげない限り、いい写真は分らないままなのだ。

なぜ自分のいいを信じることができないのか。
それは自分の感覚を言語化するのがとても困難だからというのが一つ。もう一つは自分は知らないことが多いと思い込んでるということが挙げられる。つまり、自分の中に誰かに説明できるような基準がないから、この感覚に自身が持てないということ。
だからお墨付きのような保証が欲しくなるわけだが、自分がいいと思ったものは誰がなんと言おうといいもので、それは自分が一番よく知っていることではないだろうか。

必ずしも言語化するのがいい写真への近道という訳では無いが、幸いなことに世の中には誰か認めた写真に満ち溢れていて写真集もその一つ。
質のいい写真に触れることは自分にはなかったいいの基準を感覚的に知ることができ、そういったときに言葉が湧いてくることもある。また、インスピレーションを受け新たな活路が見えてくるかもしれない。

自分が思ういいの基準をいちいち説明して回る必要はないと思う。しかし、わかりやすい言葉でいいから自分の中に確かな基準を持っておくというのは、いい写真に近づく大きな一歩だと思う。

野球を経験していない人が7回のゴールデングラブ賞を受賞した井端のプレイ集を見たところで何も感じないだろう。
しかし、トッププレイヤーを志す野球少年ならどうだろうか。「僕もいつかは井端みたいに」と努力することはできる。
つまり、そういう世界があるということを知る必要があるのだ。
シンプルなことだか難しい。
でもその先に本当のいい(佳い)があるとだと僕は思っている。

この記事が参加している募集

カメラのたのしみ方

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?