現実は事実より奇なり
クライアントさんの反応があまり良くない話なのですが
例えば
”ECO“がついた商品よりも
単純に安い製品がエコロジーだったり
“消費”が多数決だったり
さらにはマーケティングのサンプルにされてたり
“検索”も多数決だったり
分断を意図かそうじゃないかはわからないように作ってたり
なんだかみんなが0-100の世界になってきたなぁ
というのを流行病の前くらいから感じていて
それが流行病と戦争で一気に顕在化したような感じがしてます
前日記に死生観のお話をしましたが
職業柄、いろいろな死を見てきました
そこでも0-100なんてことは一切なかったです
達観して最後を落ち着いて迎えられると思った方が
最後は性格変容起こして大変だったり
ずっと『まだ死にたくない…どうにかして… もうここだけが頼りなの…』
って重い想いを残されてた方が
すごく安らかに『ありがとう』って言って逝かれたり
人間の関わる事に0-100なんてあり得ません
例えるなら
好きな人に振られた後に100万円拾ったらどうでしょう?
もう振られた悲しさなんて忘れちゃうんじゃないでしょうか?
あまり知られてないですが
従軍員慰安婦問題も裁判記録的には
韓国では無かった、ですが
実はヨーロッパではあった
と言うのが判例として出ています
潔癖 も 極悪 も無ければ
正しさなんぞ状況でいくらでも変わります
状況で変化するものを0-100で決められると思いますか?
『隣の草は青い』
その青さは、一体何を犠牲にして生まれたのでしょう?
『枯木に花を咲かせましょう』
一見、イカれたと見られる行動が安らぎを作るかもしれません
私はただただタネを撒き続けます
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