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魔夜峰央漫画が好きな私はおばさん構文ぜんぶやってる

何かを捨てると新しく入ってくると聞いていたが本当だった。
先日本棚を購入していろいろな漫画を売りに出したところ、幾日もしないうちに同僚からひょいと漫画を貸してもらえたのだ。
魔夜峰央先生の「横須賀ロビン」である。

『横須賀ロビン』魔夜峰央 花とゆめコミックス

まず、私と会話してくれる友人や周囲の方にはさんざん同じ話を聞かせておりうんざりされているだろうが、私は魔夜峰央先生のファンである。
トークショーには3回出席。サイン本は2冊ほど。握手つきサイン会だったので僭越にも芸術作品を生み出すその右手を拝借してパワーをいただいた。なんなら奥様のお顔だって知ってる(トークショーにいらしていただけで家に見に行ったとかではありません念のため)。

私が一番最初に魔夜先生の作品を読んだのは小学校4年生くらいだったと記憶している。姉の本棚にあった「パタリロ!」を拝借したのが出会いである。持つべきものは年の離れた少女漫画好きの姉である。

魔夜作品の素晴らしさは今更私が述べるまでもない。精密なオートクチュールドレスのような、妖艶な空気漂うビアズリーの描く絵画のようなベタ(黒塗り)の美しい画力。繊細な瞳、手足、髪の毛、身に着ける衣類。小学生女子は怪しい魔法がかかった宝石のような漫画にどっぷり魅了されたものである。

ストーリーは贅沢にミステリーありホラーあり笑いあり、SFに悪魔論まである。話の主軸ではなくとも美しい同性愛までついてくるのである。かつ小説並みの文字量で登場人物たちが会話を繰り広げる。当時380円で売られている場合ではない。

小学生の私は夏休みの読書感想文のテーマを「パタリロ!」にしようか迷ったけれど妙に常識を意識してできなかった。どうせ学校は「十五少年漂流記」あたり選んでおけば黙るだろうと生意気にも先生を下に見ていた。理解できなかろうよ、このニヒルで耽美な世界観は、と。
(決して「十五少年漂流記」をバカにしているわけではないが話を覚えていない)

脳内が麗しい男性同士の恋愛で当たり前になっている私にとって、すでにクラスの男子などガキ・オブ・ガキであった。お前らはバンコランにはなれない。お前らはマライヒを愛す資格すらない。
もちろん私だって彼らの森高千里にはなれない。森高はクラスの端っこでせっせと漫画家の絵を真似して描いたり、自作の漫画を制作したりはしていないだろう。対立すら起きない、お互いを空気、いや分子としてみなす、そんなお互いさまの関係性を築くことができていたのだと今にしてしみじみ思う。わかり合えないということがわかる、相互理解が進んだ関係だったのだ。

魔夜先生はその才能から「パタリロ!」のみならず「ラシャーヌ!」や「翔んで埼玉」などたくさんの代表作をお持ちで、その中の一冊が「横須賀ロビン」である。ある美しい兄妹の日常から話は始まる。不幸な事故で兄が亡くなるが、その死の瞬間に飼い猫だったロビンの体に兄の魂が入ってしまって……というストーリー。つまり猫になってしまった人間が主人公である。
わたしにとっては観月ありさ主演の「じゃじゃ馬ならし」より「横須賀ロビン」のほうが入れ替わりコメディの出会いとしては先になる。

とはいえずいぶん長い間読んでいなかった。20代のころお金が無くて漫画の大半を売りに出してしまい、この作品もその中にあったと思われる。同僚とはひょんなことからお互いに魔夜峰央先生のファンだということがわかり、最近も埼玉は大宮まで魔夜峰央展に一緒に行ってしまうほど懇意になった。そこで彼女が持っていた大切な2冊(「横須賀ロビン」はコミックス全2巻のため)を貸してくれたというわけである。魔夜先生のおかげで友達ができた。

おさらいしてみると自分がまったく勘違いしていたところや、月並みながら20代のころの読後感とは違った感覚が押し寄せたりと、新たな発見が尽きない。80年代の洋画のセリフを呼んでいるかのような洒脱さすら感じるのである。私は早速、貸してくれた同僚に以下の通りメッセンジャーする。

〇〇さん!!読んだよー!めっちゃ名作…クリムゾンがネコだって認識してなかったわ!(顔)気づきがたくさんあって心震える~(顔)沖様登場までまだ読めてないの(顔)また話そう!ランチいこー(♡)
今日寒いからあったかくしてね!

お気づきだろうが巷で話題になった「おばさん構文」とやらの模範的文章である。
()は絵文字。三点リーダー、最後の体調の気づかいだって抜かりはない。エクスクラメーションマークだって時として絵文字である。これ以上の長文だって俄然いける。上記など短文過ぎて不安になるくらいである。

おばさん構文の特徴を洗いだしてみるとそれは感情を正確に伝えたいことの現れ、つまり語るべきものがある世代ということなのである。正確に伝えるためには絵文字が必要だし、普通に黙っているだけで「圧」と受け取られかねない40代、余計「怒ってないですよ~」的な気を遣う。そして体調の憂慮だって欠かせない。人はいつも元気ではないことをすでに知ってしまっているのだから。

どんな方法でも構文でもいい。好きな人に好きが伝われば、これ以上のコミュニケーションはない。現に私は今こうやって誰の得にもならない文章を好きだけで綴っている。好きはダダ漏れるのである。対象物が自分と共通していなくても良い。なんとなく同じ温度感で、時にはそれよりちょっと上で、写真や文章から成長止まらない好きの手足がにょろにょろでてしまっているブログなどに出会うと、心の奥がくすぐられたように笑いがでてしまう。

私は森高になれなかったおばさんになっても元気で生きている。
今日も平和で、どこかの子どもたちに魔夜作品が届いて、好きが生まれていることを切に願う。

また書きます。

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