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【牧水の恋の歌⑤】「さびしさ」

あひもみで身におぼえゐしさびしさと相見てのちのこの寂しさと

 会えなくて感じていた寂しさと、実際に会えてから後の寂しさと。その二種類の寂しさが、一首の中で並べられている。作者自身が、寂しさの質の違いを感じたからこそ生まれた歌だろう。その違いについては述べず、二つの寂しさを提示することで、読者に考えさせ、余韻を残している。どちらが、より寂しいだろうか。その寂しさの質はどう違うだろうか。心というものの複雑さ、恋というものの厄介さに、いやおうなく私たちは思い至る。

 状況としては、会えないよりは会えたほうがいいので、会う前の寂しさのほうが大きいようにも思える。けれど、現実を考えると、そうとも言い切れない。会う前の寂しさは、会えたらこうしよう、ああもしようという、ある意味想像まじりのもの。でも実際に時間を共にした後で感じる寂しさは、より具体的なものとなる。あの笑顔がもう一度見たい、あの話の続きがしたい、あの柔らかな肌に触れたい、というように。だからこそ「この」寂しさという限定的な表現になる。

 明治三十九年の夏に、牧水と小枝子は、神戸で偶然出会った。二人が再会したことが資料的に確認されるのは、翌年の六月だ。しかし歌を見るかぎりは、それ以前にも会う機会等があったのではと思われる。この歌は明治四十年の二月に雑誌に発表されていて、原型とおぼしき歌は友人あての一月の葉書に記されている。もし会えたなら、というような空想からは生まれえない生々しい感情を伝える一首ではないだろうか。

「書香」令和元年11月号掲載 書 榎倉香邨

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