見出し画像

”学校教育の多様化”と”多様なオルタナティブ教育”の在り方

【ホームスクール研究】
 メンバーシップ特典記事です。月額500円のメンバーシップ《ホームスクール資料館》に参加すると無料で読めます。


 論文を参考文献としてとりあげています。感想や批評ではありません。論文をよみながら、次々と思い浮かべるあらゆる課題をかきつづっているものです。
 答えにたどりつくまでにできることは疑い続けることでしょうか。問い続けることでしょうか。

 「その考えは間違っています」と指摘する考えや論を私はいつも欲しています。そうして「わたしは間違っていた。無知であった」と今までの考えを捨て去る理由をもちたいと望んでいます。そうすれば、考えることをやめることができる気がするからです。でもなかなかそれが叶いません。どうしても納得できなかったり、ふたたび疑問がうかびあがります。
 そのためこうして書き続けることになります。こうして書き出していかなければ、いつまでも同じ考えが、言葉が、繰り返し繰り返し頭に響いてしまい、一度取り出さなければ次に進むことができません。
 目を止めるかたがいらっしゃればさいわいです。


オルタナティブ教育/ホームスクール

 ホームスクーリング・センターkokageは、日本のホームスクールの在り方を探ります。私自身がホームスクールの概念を知ったのは、こどもたちの過ごし方を模索していたときでしたが、それでもすんなりとその概念を受け容れることができた理由があります。学生時代にオルタナティブ教育について知っていたからです。ですから、ホームスクールはそもそもオルタナティブ教育の範疇だと思っていましたし、交流ある方々もまたそのような共通認識でいました。

 近年ではオルタナティブ教育を源流とするフリースクールの認識は薄れ,
不登校の受け皿と認識されるようになり、ホームスクールはその延長上に置かれています。「学校に行かない選択肢」とされる認識で学校基準の考え方がすっかりあたりまえのものとなってしまった印象です。
 これをどのようにとらえればいいのかを模索してきました。

 学校教育の多様化を目指す在り方と、学校教育とは異なったオルタナティブ教育の在り方です。

 現在では前者が特に目立つ傾向にありますが、日本でもどちらも存在しますし、どちらが新しいとか本筋であるとかいうものでもありません。重要なことは、それぞれに必要とする家庭があるということです。

 ふたつの在り方は、時に一方だけが注目され、混同されます。
 同一視されることで起こるもっとも懸念されることはなにかといいますと、一方が社会的認知を獲得し社会的に承認されることで、もう一方が無いものとされたりこれまでになかった不利益を被ることです。
 どちらか一方でも好意的に受けれられるのであれば、もう一方も同様に社会に受け入れられるのではないか、という考えは確かに捨てきれないものではありますが、これまでのいわゆる不登校運動の経緯を振り返ればそれはかなり楽観的で無責任なものに聞こえるでしょう。

 ふたつの在り方の違いはどのようなものなのか。
 次の論文から、思い浮かぶことをつづっていきます。


参考論文

学校教育とホームスクール──家庭を学習拠点とする義務教育機会の諸相』宮口 誠矢
「特集1:学校制度の臨界を見極める」日本教育政策学会年報 第27号 2020年より。

目次:
はじめに
1.学校教育との関わりを視野に入れたホームスクールの把握
2.親や家庭教師によるホームスクール
3.学校によるホームスクール
4.学校外の公的機関によるホームスクール
5.「義務教育の提供主体」と「義務教育を受ける場」をめぐる課題
おわりに──ホームスクール制度の構想

”ふたつの理念”をとらえる

「退出」のホームスクールと「拡張」のホームスクール

教育機会には、義務教育の提供主体も学習の場も学校以外となるホームスクールと、学習の場のみを学校から家庭に移し、学校が義務教育を提供し続けるホームスクールという、二つの理念型を見出すことができる。

ここでは、前者を学校教育からの「退出」としてのホームスクール、後者を学校教育の「拡張」としてのホームスクールと呼ぶ。

5.「義務教育の提供主体」と「義務教育を受ける場」をめぐる課題

 公的関与の度合に着目すれば、公教育からの「退出」としてのホームスクールと、公教育の「拡張」としてのホームスクールを区別することもできよう。

5.「義務教育の提供主体」と「義務教育を受ける場」をめぐる課題

 最終章を先に取り上げました。
 これが結論です。これが導かれるには、多様なホームスクールの形態を知る必要があります。


就学義務と学校教育緩和政策の経緯 

 まず、教育制度の現地点はどこにあるのかを把握します。

 日本の義務教育制度は、学校教育法第一条に定める法律上の学校、すなわち 一条校のみへの就学を義務付け、一条校の拡充によって子どもの教育を保障する仕組みを戦後一貫して採ってきた。一方、1992年9月には学校外施設での相談、指導を在籍校での出席扱いとすることができるようになり、その後、IT等を利用した学習活動を出席扱いとすることも認められ、さらに不登校特例校が導入されるなど、従来の義務教育制度における規制を条件付きで部分的に緩和する施策が旧文部省、文部科学省によって行われてきた。2016年12月には教育機会確保法が成立し、不登校の子どもが学校外で受ける教育の重要性などが法律で認められたものの、現行制度に大幅な変更は加えられなかった。

はじめに


 予備知識を記します。

参考1)
平成17年7月6日『不登校児童生徒が自宅においてIT等を活用した学習活動を行った場合の指導要録上の出欠の取扱い等について(通知)

「不登校児童生徒への支援の在り方について(通知)」令和元年10月25日に伴い、廃止。

 変更点はどこかについて、こちら↓で示しています。

参考2)
不登校特例校とは。

目次:
教育機会確保法の意義と活用
情報を得ること・求めること
夜間中学校
通信制中学校
通信制小中学校の可能性
不登校特例校(公式の自由学校)
教育機会確保法はどこに向かうのか

教育の機会は多様にある(その4)
2019年1月12日

参照3)
教育機会確保法とは。


 特に留意すべき点はここです。

2016年12月には教育機会確保法が成立し、不登校の子どもが学校外で受ける教育の重要性などが法律で認められたものの、現行制度に大幅な変更は加えられなかった。

『学校教育とホームスクール──家庭を学習拠点とする義務教育機会の諸相』
はじめに

 教育機会確保法を考察するnoteでさんざん書きましたが、一般的には「現行制度に大幅な変更は加えられなかった」事実があいまいに認識されているのではないでしょうか。というのも、都合の良い部分だけを切り取り「安心」を売る側面が見られるからです。その動機は、この動きを契機に本来要求してきた要望を通していきたい気持ちや、ともかく「安心」からしか一歩が踏み出せないことを伝えたいからでもあることでしょう。
 情報がどこからでも取れる世の中になっていますから、伝わってほしい人に伝わって良いタイミングで情報内容が伝わるように配慮されるようにはできていません。結果、都合の良いように拡大解釈されがちですし、逆に負の方向にも不安がふくらむ要因にもなります。それぞれの立場で、見え方が異なるためです。それは情報の一部分を切り取るから起こることです。全体を眺めること、それまでの経緯・歴史を振り返ってみることは重要です。

ホームスクールの多様な在りかた

 ホームスクール(ホームスクーリング)の定義は、現在、日本にはありません。
 過去には、文科省の「各国の義務教育制度の概要」の記述を取り上げて、「日本ではホームスクールは認められていない」と認識されたこともありました。今、該当の文科省のページを開いてみましたが、再編集されているようです。そのような記述は見当たりません。(この経緯は、noteで取り上げたことがあります。が、どのnoteだったのか、覚えてなくて発見できません。ご存じの方はおしらせください。要は、日本では「ホームスクーリングについて定義していない」ことが事実です。)

 そこで、さまざまなかたちでなされている教育や学びの在り方を指して、ホームスクール(ホームスクーリングやアンスクーリング)と個々に自称しています。それぞれの概念に対してさまざまな解釈がなされていますから、そこから共通認識を見出すことは困難です。しかし「どのような形態が存在するか」という事実を確認することは可能です。
 論文から、そのいくつかの「ホームスクーリングの在り方」の記述を部分的にとりあげていきます。いずれも日本国内でも同様にある在り方であることがわかります。

米国全体では、5歳から17歳までの子どものうち、約169万人 (3.3%)がホームスクールで学んでいると推計される。 そのうち、約15%の子どもは公立学校にも、約2%の子どもは私立学校にも出席することがあり、彼らの約7割は、平均して週に5日間学校に通っている。 一週間に学校で過ごす時間の平均は、6時間から10時間が最も多く(約56%)、 次いで1時間から5時間(約30%)が多い。また、多くのホームスクールは1、2年間しか続かず、ホームスクールを中止して学校へ就学、復学することは一般的である。

1.学校教育との関わりを視野に入れたホームスクールの把握
全米家庭教育調査(National Household Education Survey)の分析結果

 「多くのホームスクールは1、2年間しか続かず、ホームスクールを中止して学校へ就学、復学することは一般的」。この点は興味深いです。なぜなら、日本でも同様の印象を受けることがままあるからです。その理由はさまざまでしょうが、なにより「ホームスクールから学校へ修学・復学する」選択が用意されていることが肝要であると思います。学校からホームスクールへ、ホームスクールから学校へと柔軟な移行が実現するためには、双方の連携が密であることや、互いに偏見や差別を持たない姿勢でいられることなどの環境の豊かさが必須だからです。
 ホームスクールから学校へ就学・復学すること(あるいはその逆も)は、帰属意識の強さが邪魔をして、その後の関係性に歪みが生じるおそれもあります。そういうことなしに、文字通り、自由に往来できる環境になるには、権利と自由の行使と個人の意思を尊重するという基本的人権が根付いた土壌が必要でしょう。
 そのような誰にとっても必要な意識の変革についての議論なしに、ホームスクールを「学校教育の代替」としてみなすことや、それを承認するためのシステムを作ることや、社会に承認されるために成果や結果を挙げることに注力するだけでは、ただ境界線を明確に引いてしまうだけになってしまいます。「ホームスクールが認められる」という言葉には、そのような不安をぬぐえません。

ホームスクールの捉え方いろいろ

 ホームスクールの捉え方が異なることが指摘されています。調査における質問の内容や対象の分け方によって、次に該当するこどもたちが、いわゆるホームスクールのこどもとみなされるかどうかが違うようです。

ホームスクールで学びながら学校の教育活動に部分的に参加している子ども

 日本国内でも不登校あるいはホームスクールについて、いくつかのアンケートが実施されましたが、いずれも、上記と同じ課題があります。調査対象が質問内容により、かつ条件が限定されることにより、「自分は対象ではない」と判断し、回答者に偏りが生じます。欲しい回答ありきのアンケートか、事実を浮き彫りにしたい社会調査かどうかの作り手の意識の違いも、結果と分析の違いを明確にするでしょう。

 「ホームスクールで学びながら学校の教育活動に部分的に参加している子ども」は、米国のシステムでは「ホームスクールで学ぶこどもたちが参加するプログラム」「スクール生と同じプログラムに共同参加するホームスクールで学ぶこども」という見方になるのでしょうが、日本ですと違います。「学校に通っていない生徒が、学校で授業を受ける日がある」といった具合です。その生徒は普段はホームスクールで学んでいるかもしれませんが、その教育内容とは関連性がありません。学校の授業に参加しているときは、その学校の生徒であるという見方になるでしょう。
 ホームスクール制度がないとは、こういうことかもしれません。

 カタチとしては、すでに日本でもホームスクールで学ぶこどもたちが、在籍する学校の授業に参加することは可能です。受けたい授業、教科を決めて、時間割に合わせて通うということも実現できます。(我が家では小学校でそのようなことが可能でした。)それは家庭が学校あるいはホームスクールをどのようにとらえているかで、学校への提案と意思決定の方針がちがってくるでしょう。

義務教育段階のホームスクールを「家庭を学習の主な拠点とした義務教育」と広く定義する。
・子どもが主に家庭で学びながら学校に通学するものが含まれる。
・親や家庭教師が義務教育提供主体となるホームスクールのみならず、 学校やその他の機関が遠隔で義務教育を提供するものも含む。
・学校を主な学習拠点としつつ、学校の宿題等を自宅で行うことは、この定義から除外される。

1.学校教育との関わりを視野に入れたホームスクールの把握

 「学校を主な学習拠点としつつ、学校の宿題等を自宅で行うことは、この定義から除外される。」とわざわざ明記していることは好印象です。なぜなら、まさにこのカタチを「ホームスクーリング」と言う人は一定いるのですが、「ホームスクーリング=家庭学習」というきわめて狭い解釈がまかりとおることになります。すると、短絡的に、「家庭学習さえていれば、ホームスクーリングなのだ」と受け止められかねず、教育内容や教育の質に疑問が生じます。「許可承認される」条件付けの存在は、常に中身をうやむやにしてしまう非常に危ういシステムだと考えられます。一般的には「許可承認する条件の決定」をすることが、「ちゃんと」「きちんと」「しっかり」したシステムだとうけいれられやすいようですが、実際には、条件を決定した者から責任の所在を実行者に移した巧妙なやりかたです。いわゆる「自己責任論」というものです。自己責任でありながら「その責任を果たしたかどうかの結果・成果を第三者に示すように」求められることが、公にはあたりまえで公平なこととして受け止められがちですが、他者に監視監督指導されながら自由な学びは果たして実現しうるのでしょうか。

義務教育期間のホームスクール

 論文の第2章から第4章には、米国を例にホームスクールの多様な教育の提供主体が示されています。日本ではどのように置き換える事ができるでしょうか。

○親
○有資格者の家庭教師
○公立学校
○チャータースクール(ホームスクールで学ぶこどもへの教育提供を主たる目的としている)
○学区等の行政機関

2.親や家庭教師によるホームスクール
3.学校によるホームスクール
4.学校外の公的機関によるホームスクール

  日本国内では次のような在り方が確認できます。
○親
○家庭教師(資格を問わない)
○公立学校:学校内外での指導
○フリースクール:フリースクールの一部利用や在宅学習の提供
○行政機関:不登校に係る支援

 これらは「不登校支援」のカタチを借りたホームスクールの在り方という見方です。ホームスクールの定義がなく、不登校との境界があいまいであることから、「不登校=ホームスクーリング」といった解釈まであります。そのため、大人の都合によりどちらにも分類される扱いがしばしば見られます。もちろん両者はどちらの側面も同時に持ちえます。
 ホームスクールで学ぶこどもが「学校を利用・活用する」意識でそうしている場合もあれば、不登校のこどもが「なんとか学校教育と関わることができるカタチで学習する機会を得る」場合もあります。ですが、どちらもそれぞれの提供する教育機会の「利用者」には変わりありません。その区別はどこでつけられるものなのでしょうか。その区別をつける必要性は、多くは、「支援を受ける許可承認を受けているか」の手続きが必要になる時でしょう。
 ホームスクールでまなぶことが、いずれ私的な選択、家庭の自由な選択としてみなされるのであれば、家庭の外からの介入はきわめて低いと考えられますが、不登校ということであれば現状は支援の対象であり、公的な介入が望ましいとされている状態とみなされます。ホームスクールならば受けることができない援助が、不登校であれば受ける事ができるなんていうことも起こり得るかもしれません。
 なぜ、そのような差別とも受け止められかねない区別が生じる社会システムがあるのかといえば、支援とうたわれる内容が「支援をうけるべき人に与えられるもの」とみなされているからかもしれません。そもそも「人を区分けする」システムの上に立っているといえます。誰が区分けするのか、誰が決定するのか。それが問題なのです。
 必要な人に「必要であることを証明せよ」と迫る社会システムは、誰のためにつくられたのでしょうか。ふと、そんなことも疑問に思います。身近なところでは、「理由を述べよ。わたしたちが納得できる内容であれば認める。」と迫る構造と同じです。ここでの”わたしたち”にあてはまる誰を想像しましたか。
 
 「不登校」としてとらえて浮き彫りにすべき課題もあれば、「ホームスクーリング」ととらえて明らかにするべき課題もあるのは当然のことです。同じ様子を確認できたとしても、どの側面からとらえるかで、どのような課題となりえるのかが違ってきます。それらはとくに「学校信仰」の価値観によってもおおきく左右されます。
 それゆえに明確な境界線をもうけるような法制度は、非常に慎重におこなわなければならないことがわかるでしょう。

 どのような分類が存在するかを分析することは、このように、あってはならない分断について理解を深めることが可能になるのでしょう。

教育の国家介入の原理と日本国憲法

 第5章から次の記述を抜粋します。
 「フォーマルな教育に対する国家関与の原理を採用し、私的な教育に対するものとは異なる形で規制を課すことを支持する」と位置付けられているロブ・リーシュの論の要点です。

 リベラルな国家の市民となるために必要な「最低限の自律性(minimalist autonomy)」を育成するような教育がすべての子どもに保障されるべき

 最低限の自律性の育成が親によるホームスクールにおいても可能である

 ホームスクールは合法であるべき

 無規制のホームスクールは認められない
(最低限の自律性を育成しない事例を生じさせないよう、国家が規制を課し、親子関係に介入する権限と責任を有する。)

ロブ・リーシュ「フォーマルな教育に対する国家関与の原理を採用し、私的な教育に対するものとは異なる形で規制を課すことを支持する」
5.「義務教育の提供主体」と「義務教育を受ける場」をめぐる課題

 これについてはふたつの観点を念頭に置きたいと思います。

 ひとつは、「最低限の自律性を育成する」ことについて、日本の教育制度の構造です。

https://homeschool905.wixsite.com/kokage/starter

​教育基本法/普通教育の目的
学校教育法/普通教育の目的を達成するための目標

  日本の現行の教育制度では、学校教育法に並ぶオルタナティブ教育法が存在しません。ですが、もしそれが実現するとすれば、学校教育法と並列となります。つまり、学校教育法と同様に、教育基本法にある「普通教育の目的」を持ち、学校教育法とは異なる「普通教育の目的を達成するための目標」を掲げるものとなります。その目標は、学校教育に左右されません。
 ホームスクールがオルタナティブ教育であることが理解できれば、そこで、次の記述も理解できるのです。

たとえ親が行うものであっても、子どもを家庭で育てる行為と、子どもをホームスクールにおいて教育する行為は異なる。ホームスクールにおいては、フォーマルな教育を提供するという、学校の担ってきた責務が親に課されることとなる

5.「義務教育の提供主体」と「義務教育を受ける場」をめぐる課題

 これは学校教育を家庭で行う際の規定を作るべきであることを意味するものではありません。そのため「学校教育を家庭で行う支援」や「学校教育を家庭でおこなう規制」が必要である根拠にもなりません。学校への報告義務や結果による評価もありえません。それらは学校教育を家庭で行う場合にいかに規定を設けるべきかの議論を前提としたものだからです。

 学校教育を家庭にうつした(スクールアットホーム含む)教育の提供であれば、そういった規定や支援は、提供する側からも提供を受ける側からも「許可承認」の安心保証の意味で、要望があるでしょう。

 オルタナティブ教育的なホームスクール実践をするならば、このような学校からの介入は家庭を侵害された気分を覚えることでしょう。こどもたちの家庭での活動内容の報告義務は、ホームスクールの親が、親の役目ではなく、監視役と報告の為の記録役の役目を果たさなければならなくなります。それは、親の役目と同時進行にはなりません。親の役目を捨てて、その役割を担う責任を負いなさいということになります。それは、まなびのサポート役と、指導者教師役の違いでもあるかと思います。

 「子どもを家庭で育てる行為と、子どもをホームスクールにおいて教育する行為は異なる」観点を持つことは非常に重要です。教育の提供の主体が親あるいは家庭にあることを確信しているからです。その教育方針を位置づける時、参考にするのは教育基本法の普通教育の目的ということになるでしょう。学校教育法の普通教育の目的を達成するための目標ではありません。しかし、教育基本法の内容ですら、ホームスクール家庭の広い視野から眺めれば、公平に判断すべきという観点を持ちます。現行の教育基本法は、旧法と比較して一層政治的思想を色濃くしていると判断できるからです。盲目的に順守すべき立場にある公務員の判断とは到底異なります。

 もうひとつの念頭に置いておくべき観点は、日本の法における教育に関する理念です。これについては以前に別のnoteで述べました。教育の内容を国が介入するのか。教育を提供する主体の自治と自律についてです。日本の教育制度の構造は国家教育の要素が強く、政治から独立するのが難しい法制度があります。運営に関する公的な援助を求めるために、国からの要請と介入を交換条件とばかりに容認する体質がそうさせます。
 これについても「個人」の在り方を尊重する思想体系、権利の行使、自由意思の決定などが未熟な社会であるからにほかならないのでしょう。これは労働者の権利と労働環境においても同様の日本全体の課題といえるようです。

 次の記述に続きます。

日常生活における多様な教育的営為を「教育としての生活(Life as Education)」(以下、LaE)と名付けたうえで、「ホームスクールにおいては学校教育と LaE とがしばしば深く編み込まれ」ており、両者を識別することが困難であるとの問題を提起し (Kunzman 2012: 76)、教育活動それ自体に関する規制、すなわちインプット規制ではなく、アウトカム評価を通した規制の必要性を論じている。

ロバート・カンズマン (Robert Kunzman、インディアナ大学教授)

 これは、とても米国的な教育環境の在り方に通じることだと感じます。というのも、日本の学校、日本の教師ならば、そして義務教育期間(小中学校)であればそれは特に特徴的なことだと思うのですが、教育としつけ(価値観の指導・動機付け)の境界がほとんど無いことです。個人の価値観、帰属集団の社会化に必要な価値観、それらが教育と強く結びつくと信仰や宗教にほぼ近いものになります。家庭においても、その家のしきたりを継承することや獲得すべき内容を定めた教育内容となることが、しばしば必要であったり、逆に不必要であるにも関わらず無為に継承されていることもあるでしょう。しかしそれが意識的に区別されていることならば分別がついた行動になるのですが、混同していると、自分が影響を与えることができる範囲にいる他者にも同じ価値観を押し付ける行動を取ってしまうことになりかねません。個人を尊重することや個人の意思決定、選択の自由といった基本的な人権の概念が、基礎土台にしっかりねづいているかどうかです。お国柄といって問題があるかもわかりませんが、どちらかといえば、日本文化においては価値観が同様となる社会化が広くおこなわれることのほうが良しとされている土壌を持ちます。教育としつけが分別を持って意識的におこなわれるというより、脈々と受け継がれていくしきたりとして内面化していくことのほうこそが好まれているように思えてなりません。
 伝統的な家柄を守っていくには有効なその手段なのでしょうが、市民教育という観点では、個人のありようを軽視したありかたとも見えます。そんな文化の大きな違いの間を埋めるという作業無しに、お違いある文化をそのままカタチ通りに見本にすることはおおきな歪みを生むに違いありません。


こどもの権利/学習者主体の意味をいまいちど考える


 第5章では「義務教育の提供主体」と「義務教育を受ける場」をめぐる課題」がまとめられています。親や家庭教師、学校、教育団体、行政といった義務教育の提供主体と義務教育を受ける場において、その教育内容を把握することは難しく、結果重視の方法を取る為、結果をいかに判定するか、その内容と方法について疑問が残ります。

教育を提供する主体が複数いる場合に、どの主体がどの範囲で教育に責任を負うのかという点が制度上曖昧になれば、義務教育提供主体に責任を果たさせる仕組みが機能せず、そこに教育保障の「抜け穴」が生じる可能性もある。複数の主体が共同して義務 教育の提供に関わる仕組みを導入する際には、教育提供主体間での責任の分有について検討し、それを制度上明確に規定することが求められよう。

5.「義務教育の提供主体」と「義務教育を受ける場」をめぐる課題

 ここは、あくまで「教育主体」に観点を置いた議論です。
 教育を提供する主体が持つ責任をどのようにして果たすべきかという観点に立っています。それは公的な働きであるゆえに必要な決めごとであることはゆるがない事実なのですが、家庭からみれば、ともすれば親、家庭、学習者の意志と在り様を置き去りにした策にすすみかねない懸念を抱きます。

 なぜ、そのような「異なる立場」「相容れない立場」が存在するのでしょうか。
 それは、基本的に行政と家庭が対等になりえないという信念が根深いからに違いありません。家庭でこどもを教育することはできないという信念、親がこどもを教育することができないという信念、教育の専門性を家庭が担うことができないという信念、あるべき教育の手助けをするために家庭の在り方を指導しなければならないという信念…そういうものがはりめぐらされています。これらの信念は、家庭を指導する権限を与えられている立場にある人以上に、家庭そのものがそれを信じて疑うことがありません。対等ではいられない理由です。
 教育するという聖域つまり特権者の権威を発揮できる唯一の土俵であるという意味ですが、それらを崩されてはならないとする現状を維持したいと願う心根です。その真意は、安定を願う心でしょう。それが平和だと信用しています。
 しかし、その安定は一部の人のモノでしかないことを知った人々は、いわゆるマイノリティ(少数派)であることを自覚させられ、さらに支援を得るべきとの信念を生むようにレールが敷かれているかのようです。どこまでも大衆を支配管理するてのひらで動かされているような気さえしてきます。

教育を提供する場と機会ととらえるか、暮らしのなかの学びの在り方をとらえるか

 これは果たして適切な対比かどうかわかりません。しかし、主体者は誰かという問いかけとしてはありかもしれません。

 教育する・教育を受ける機会は、やはり一定の技術や手法を学び習い身に着ける意味合いが強いように思います。こどもたちは「集団」のなかで過ごすための教育を学校という建造物に活動範囲を規定して、有資格者である指導者のもとで定められた規則に従って、然るべき態度を身に着ける時間を与えられます。それはこどもにとっての最善とみなされた、公の教育の提供機会と場です。
 視点を変えて、学習者の目線から見れば、その環境は学習者自身の期待にどれだけ応えてくれるものになっているでしょうか。建造物の中で得る体験は、暮らしと生活の1日のなかでの数時間の出来事です。1日の出来事は、小間切れにされずに、ひとりの人間の体験と経験としてつながっているでしょうか。むすびついて、気づきと発見に至り、そして生きる学びの蓄積に届いているでしょうか。
 机の上で世界を見ながら、自分が置かれている社会の構造の背景を知ることも同時にできているでしょうか。社会貢献は、今の自分から飛び出していかなければならないような遠くの夢とならなければならないものでしょうか。そうであればあるほどに、教育の機会は、あらゆる背景の違いに左右される教育格差のひろがりの糧となってしまうだけのように思えてなりません。
 遠い世界のこどもの暮らしが、自分たちの暮らしを思い返してみても「身近に感じる」ことができるとか、国が違っても思いに共感できるとか、自分らしくとかいうより、ありのままでいていいよとかいうより…もっとずっと自分が自分であることを理解して受けとめていられることだとか、もっと感覚的に、感性がとぎすまされていていい穏やかな時間に居ることだとか。なんだか、そういうどの国にいても、どこにいても、人が人として自身も他者のことも事実をうけいれられる理性と自律を持っていられ社会であることだとか。そんな思いが巡ります。

アンスクーリングで暮らす

 ホームスクール制度のある諸外国においても、その制度を利用しない家庭は一定いるようです。日本でも同様でしょう。そのとき、確かに公共の責任として、教育を提供する主体の責任の所在を明確にし、その役割を果たすための働きは社会的にも求められることは健全な社会だと考えられますが、常にその在り様が問い直され更新されていく構造が常に存在していることもまた健全な社会の在り様です。
 増え続ける不登校児童生徒の数をみて、「誰一人取り残さない」とうたわれる策は、実現不可能な目標を掲げて「実現しようとする」試みに意味があるのであり、実際にそれが実現可能にする策を作り出すことに意味はないでしょう。ですが、やはり実現可能な策を作り出す数々の企業の実証実験に注目が集まっているようでもあり不安が募ります。なにせそれは結果を生みますし、結果を評価する価値観を強化するものですから、役割と責任を果たす立場にいるひとびとにとっては有難いお手本となってくれる期待が膨らむ一方でしょう。それで責任を果たせるのですから。
 そうして、ますます家庭は、親は、学習者は、そして市民は、あたえられるだけの存在であると再認識と再教育を受けるだけではないのかと思ったりします。

 アンスクーリングは、脱学校とも訳されます。
 学校と一歩離れて、しかしながら、まったく無関係でないことも意識していると、学校だけでなく、政治、国、世界が連動していることに気づかないわけにはいきません。それでいて、足元にある、一見、それらとは違う文化の在り様にも、いやおうなく対峙することになります。

 アンスクーリングもまた定義がないものですから、脱学校の意味が、ただ単に「学校に行かない」「学校の授業とは異なる進度で」というものにすぎないという解釈であれば、やはり学校的な価値観のなかにとどまっています。学校を基準とした価値観を持って判断しているからです。
 学校でないものが次々とあらわれてくるとき、「学校で無いものだ」と認識しながら、やがて教育から学習へ、そしてどちらでもないなにかに手が届きそうなそんな感覚を覚えます。
 ホームスクールに関わるできごとは、学校と学校外の区別からやがて「どちらも」という考えに変わってきました。(それゆえに教育の提供主体の責任の所在が課題にあることが論文で示されています。)あるところでは寛容に受け容れられる態度でもって、柔軟に学校とそれ以外を行き来する受け容れ対応が実現しているところもあれば、学校と切り離してそれこそ「自己責任論」で、学校には責任を負わせないと約束を交わすようなこともあれば、条件付きの許可承認というカタチがとられることもあれば、無条件でうけいれる体(てい)で放置という実情もあります。
 いずれのカタチにせよ学校外で教育を受けるありかたが容認される一方でその解放に不安を覚えるのか、「学校相当の教育と認められるには」という観念が強まってもきているように見えます。

 さて、本質的な課題はどこにあるのでしょうか。
 考える程に、個々の信念が現実化する過程であるように思えて仕方がありません。

ここから先は

512字
この記事のみ ¥ 1,000

ここまでお読みくださりありがとうございます! 心に響くなにかをお伝えできていたら、うれしいです。 フォロー&サポートも是非。お待ちしています。