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2016年7月ー西原博史さんの講演ーから。教育機会確保法からの問題提起とは

「学校外の学びをきちんと認める」ことすら目的ではないのかなとも思いました。最終的な目的というのは、自分にあった学びの場を子どもたちが一人ひとり選べる状況をつくっていくことです。それを「学校外」と呼ばなければいけないのは、日本における「学校」の法律上の定義が偏り過ぎているからです。
自分にあった学びの場を子どもたちが一人ひとり選べる状況をつくっていくことが最終的な目標より



 2016年7月におこなわれた講演の報告レポートです。多様な学びを保障する構想の原点に立ち戻るための内容となっています。以下、講演レポートのサブタイトル(前半)を並べながら、本文よりのちに検討したいポイント部分を一部抜粋していきます。

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・若者に浸透している”基本的人権”の意識(導入)

・憲法での義務教育「教育を受けさせる義務」が、学校教育法で「学校に行かせる義務」に転換ー⑴

・学校に行かない子を卒業資格認定だけして責任放棄ー⑵

・学校外での学びを選んだ人たちの想いからー⑶

・義務教育を実現する選択肢を増やすー⑷

教育基本法の下に、学校教育法に流れていく道筋と、教育基本法の中に学校教育法にはない多様な学びの場を実現するもう一つの道筋が当然ある、というのが「多様な学び保障法」の基本構想になっています。
誰が選ぶかというのが問題になります。小学校1年生の話をする場合が多いものですから、基本的にはまず親が選ぶことになります。日本の憲法システムの中には保障されていないけれども、国際人権法などなど世界の人権保障システムの中では当然に人権として認められている「親の教育権」に基づく親の選択の問題というふうに位置づけています。ただ、子どもの学年が進むにつれて子どもの意思決定がそこに関与してきますから、子どもの意見も同時に提出できるような仕組み――親が子どもの意見を無視しない仕組み――もこの法案に盛り込まれています
もう一つは、多様な学びの場としての「認定」の話が法案に出てきます。認定学び場については場合によっては補助金の対象となり、認定学び場で子どもが学んでいる場合には就学義務を果たしていることになりますというような一種の認定システムです。普通の私立学校は就学助成を受けているわけですし、ましてや公立学校は税金そのもので運用されているわけですから、それとは違う学びの場を選択した人だけが自己負担というのは不平等な話だということからしても、補助金の問題というのが、受け皿の問題、認定学び場としての補助金請求資格の問題として意識されていくという動きになっていきます。

・「多様な学びを支援する」から法案が縮小していった過程ー⑸

つまり教育というのは学校でやることに決まっていて他の場では人は育たないという強固な学校信仰を持っているところとぶつかって、その先は戦線縮小を余儀なくされていきました
 この15年9月の法案段階では、もはやオルタナティブ・スクールという影は法案の言葉からは消えていってしまい、あくまで、不登校の子たちは場合によっては多様な学びしかできないので不登校の子たちが受ける多様な学びについては支援できる体制をつくっておいたほうがよいという形に縮小されていきます。
 さらにいま16年5月に国会に提出される法案の段階ではもう一回り縮小していって、まさに不登校児童生徒のための教育のありかたの問題となり、かろうじて教育の方法として「多様性」という言葉が法案のなかに残ってはいるのですが、あくまで不登校という問題に対する環境の一つとしての法案として示されることになります。
 もう一つこのプロセスで縮小されていった点は、教育基本法の下に学校教育法が一方にあって、もう片方に学校教育以外の多様な学びの場を保障する法があるという形から、教育基本法の下には学校教育法しかなく、ただ学校教育法の特例として学校教育でないものを正規の学校教育システムとただ読み替えるにすぎないという形になったことです。このことも多くの関係者にとって敗北意識をかきたてるものとなりました

・子どもの個性に即した望ましい学びを運用する仕組みづくりへ、政党の違いを乗り越えてー⑹

原理対立は5%くらい
場合によっては、これは原理的な対立がある――国あるいは学校というオーソライズ(※公認)された存在しか教育を担えないと考えている人たちがある程度はいる――かもしれないということはあります。
 ただここの部分はおそらく誤解だと考えているのは、最初の段階で「認定学び場」という話が出てきた時に、誰が認定するのかという怪しさを抱えていたからです。にもかかわらず認定の話をせざるを得ないのはいくつかの事情があります。
 たとえば、教育業界といわれますが、そこで当然想定されることとして、朝から夜までひたすらお勉強させる24時間学習塾のようなのがうちの子にとっての理想的な学びの場だというような話で塾業界が入るというのはありますが、これは子どもの人権無視であり、多様性のシステムの中にそれはあってはいけない。しかしお金が絡むと、つまり業界が絡むと、そういう危険性があるかもしれない。また、非常に閉鎖的な宗教団体が自分たちで決めてやっていくということで、カルトのなかでしか生きていけない偏った人格を形成することによって、それはうちが行う教育なのだと言われた時には、いやそれは子どもがほんらい持っている「教育を受ける権利」とは違いますからというふうな判断をせざるを得ない場合は、やはり理論的に考えると出てくる。そうすると、内容的にほんとうに何でもありという訳にはいかないかもしれない。
 不登校の場面では、学習指導要領に準拠した――たとえば算数は何年生でこれをやりましょうといった――お勉強とは違う人の育ち方というのはやはりあります。あなたは小学校2年生を終わるのだから九九は言えて当たり前ですというシステムそれ自身が子どもの学びを閉ざしているという場面を認識していくと、その学習指導要領などのようなお勉強システムを前提としたものを標準として掲げるわけには絶対にいかないということは、フリースクール関係者であればもう心の底から痛いほどわかっています。したがってこの法案は、一種標準化された学びのプロセスを並べる形で人様に押し付けるつもりは一切ないし、またそういう運用のされかたを想定してこれまでの取り組みがあった訳ではない。
 さらに、認定プロセスが何らかの形で今後関わるとしても、そこでは、たとえば15年9月案などでは、個別指導計画は親が教育委員会に提出して終わってしまうというやり方になっていたのですけれども、これも決してお勉強としてこれができていないからダメですという不認定を受けるようなものではなくて、この子どもの個性からしてこういう学びの在り方が望ましいのだということを策定してもらえれば、きちんと統制力を持つ運用まで持っていく仕組みづくりを引き受けるかどうかを含めての問題提起だったのです。

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  kokageとして、イチ家庭から見えていた教育機会確保法の前身からの変遷と、多様な学びが意味するところの本質は、おおむね間違っていなかったと思えます。そして、教育機会確保法を介して、反対派・懸念派とよばれる側の主張がなんだったのかもまたさらに明確になります。

2011//03/07 【オルタナティブ教育法 骨子案】
2012/02/04 【オルタナティブ法案 骨子 Ver.2】
2012/10/08 【子どもの多様な学びの機会を保障する法律(多様な学び保障法)骨子案】
2014/7/6  【子どもの多様な学びの機会を保障する法律(多様な学び保障法)骨子案 Ver.3.1】
2015/7/26 【多様な教育機会確保法(仮称)案(義務教育の段階における普通教育の多様な機会の確保に関する法律案(仮称))】
2016年12月公布『義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会の確保等に関する法律』

(イメージ図解)
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まなびあい>教育制度の法整備

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家庭の肌感覚から覚える不安と懸念

 一言で言えば、「法律の明文通りに、学校現場をはじめ、教育委員会、行政が誠実に向き合って対応してくれるのか」というものです。

 オルタナティブ法案の運動体のはじまりは「フリースクールとオルタナティブスクール、そして不登校の子を持つ親の会」とある通りです。公教育(学校)以外の場という一面では傍からは共通して見える三者ですが、その思惑は違っています。

フリースクールとオルタナティブスクールと保護者の三視点

 また、フリースクールとオルタナティブスクールの運営側と、そこに通わせる保護者たちが向ける目は、まったく同じとは言えません。

 フリースクールとオルタナティブスクールの流れは、自由な学校という意味を持つ流れと、学校に行かない子たちの受け皿を期待される側面の両方を持つからです。その違いは、如実にスクール運営に影響を及ぼします。スクールの理念を理解したうえでの入学と、学校以外の子どもの居場所を期待して入学した保護者との間では、「公認」の意味が違っていたからです。
 自由な教育や自由な学びの実現を目指してスクールを設立したスタッフの情熱とその理念に共感する家庭とは別に、「学校以外の子どもの居場所」を期待してくる保護者は、さらに「学校より優れている」ことを期待しがちです。そして「優れている証明」と同時に、公教育(学校)に認められることをも求めます。具体的には「学校のお勉強をしてくれる」というものです。

 フリースクールとオルタナティブスクールの運営者は、たびたびスクール理念と、経営上の問題との間で葛藤します。ある意味、入学に条件をつけるなど妥協しないことを決めることもあれば、経営難がそれを許さない場合もあります。また、現状どこにも居場所がないこどもの姿を見て、なにかができる可能性がわずかにあることや、他にはその可能性を見いだせないような子どもを取り巻く環境上の問題を直視してしまっては、やらざるをえない状況にあるといえます。自由の実現のためにたちあげたはずなのに、結局は、社会構造のなかの限られた自由の中にとらわれている事実を感じることもあるかもしれません。 
 その問題は、日本の教育制度の不備に由来するものであるということは今一度、認識しておくべきことだろうと思います。


学校と対峙する家庭が持つ「学校不信」と「学校教育信仰」

 自由な教育と学びの実践を掲げるフリースクールやオルタナティブスクールが、保護者の代理で該当する不登校児童生徒の対応として、スクールと学校とのやりとりを業務内容を加えるのは稀なことです。それは、フリースクールやオルタナティブスクールが、日本の制度上は公教育には加わっていないけれども、学校教育と同等の教育と学びの場であると自覚しているからだろうと思われます。ただ、年々、保護者からそういったやりとりをスクールと学校でしてくれることを期待する声は高まっているでしょう。
 学校とのやりとりが生じる理由は、制度上、フリースクールやオルタナティブスクールに通うこどもたちは、皆、一条校に在籍する生徒だからです。特に小中学校の義務教育期間はそうです。就学手続きをしたうえで、長期欠席をしています。

 この事実を言い換えると、フリースクールやオルタナティブスクールの生徒(※)であると同時に、一条校の生徒であるので、どちらの教育を受ける権利も有していることが分かります。柔軟に対応できる環境さえ整えば、日本における公教育のすばらしいメリットでもあります。

(※)「生徒」と呼称してよいのか微妙に感じます。”利用者”と呼ぶのも、公的な教育機関との地位的な差を強調しているようで気が引けます。しかし図書館に行くのも、図書館側から見れば利用者とも呼ぶので、構わないのかもしれませんが、やはり”市民”というのがもっとも近いような気もします。

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