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きらいなものはきらいでいいんだよ

 きらいなものは きらいなんですよ

 それでいいんじゃないかな


 「きらい」という感情は疎まれることが多いようです。「嫌う」という行為を自分がしていることで、自責の念にかられることも多く、自分に疲れてしまうのですよね。自分を投影しているということもよく耳にすることですから、反省しきり…なんていうことも。
 でもねぇ。きらいなものはきらいですよね?いいんじゃないのって思う。

 天使と悪魔。心の中の良心と、良心にそむく心の葛藤をそのように表現します。最終的には悪魔を追い出すわけですが、いつだって悪魔も天使も自分のなかにいるものということがわかれば、悪魔が居ないことが正しいわけじゃないんじゃないかな。

悪魔だって、わたしのなかに居ていい
悪魔に負けないって思えることが大切だよ

 そんな風に思います。なにより「わたしのなかに悪魔なんていない。いるわけがない。いていいはずがない」と思う方こそ、怖ろしい気がします。

 幼いころ読んだ絵本は、いつだって悪者がやっつけられていました。
 ヘンゼルとグレーテルでは魔女が。赤ずきんちゃんでは狼が。いつも私はそのことに心を痛めたものです。

 どうしてやっつけられないといけないの?
 もしかしたら、違う風に生まれていたら、やっつけられることだって無かったかもしれないのに。かわいそうに。

  子どもの頃は、こんなことも思っていました。

 戦争のある国。食べ物が無くて餓死する国。
 どうしてそんな国に生まれるの?生まれなきゃいけないの?
 どうしてなにもしていないのに罰を受けているの?

 「かわいそう」という傲慢を、幼い命はやさしさのなかで芽生えさせます。まだ、命が命として生き抜くことが命がよろこぶありかたなのだとは、まだまだ思いもよらない頃のことです。
 輪廻転生という概念を知ったころは、苦しみの中に生まれ落ちることで、前世の罪をつぐなっているのだろうか、と想像した小学生でした。ですが世の中には、同じ町に住む人の中には、腕の無い人、足の悪い人、目の見えない人、言葉をうまく操れない人さまざまにいて、そして誰もが「かわいそう」などと言われていることには、とても違和感を覚えたものです。

 違和感を覚えたひとつのエピソードは浮浪者のおじさんたちでした。

 「どうしてあの人たちには家が与えられないの?」
父は言いました。「働かないからだよ。働かない人がわるいんだよ」。

 とても納得できる答えではありませんでした。数十年後にも父は似たことを言いました。

「人間」であるためには必要最低限のことがある。
 家・金。これが無ければ「人間」じゃない。

 正直、その時にはすでに(いつものこと)だと聞き流すだけになっていましたが、人間、変わらないものなのだとつくづく思います。変えられるのは行動です。中身は変わらない。けど中身は人間味にあふれだします。皮に騙されてあげてもいいけど、染まらないよって思います。


 貧しい国と言われている人々の笑顔は天真爛漫で、本当にうれしいことを知っている顔をしています。彼らは、彼らにとってしあわせがなにかを知っています。

家族がいること。食べ物があること。そして、今日も命があること。


 魔女が出てくるのは物語ですから、実在はしていなくて、これは心のなかのお話なのだと考えることは、私にとって安心できるものでした。悪い魔女は今日も愚かで弱い者をだまして連れてきては大鍋のなかにいれてグツグツと煮込もうとしているかもしれません。そうはさせない、と魔女から目をそらさないでいることのほうが、ずっとずっと人間らしい。
 心のなかの森には、魔女や悪魔や悪い狼だっている。同じくらい天使も、心のやさしい熊なんかも、たぶん賢いカラスなんかもいる。読まれてきた多くの物語に登場するキャラクターは、きっと多くの人のなかにいる心のなかの登場人物を表現しているんだなと思う。だから広く、長く、人々に読まれるのだなとも。

 

 「かわいそう」という感情はやさしいけれど傲慢なところもあって、それは視野の狭さから生じます。自分の「かわいそうでない」基準の枠からはずれるというだけに過ぎないから。
 「かわいそう」と思った瞬間に、自分の視野が狭まれていないか、見えていないことがあるのではないかと考えると同時に、本当に気の毒なことはなにかまで見えていたいですよね。
 「かわいそう」と思われることは、私にとって我慢ならないことでした。それは侮辱だったからです。けれども「かわいそうなのだ」と私を思う人は、知らないことがあったり、見えていないことがあったり、私と同じなのだとわかれば、心の波も荒れません。(あなたはそう感じるのね。そのやさしさだけを受け取っておくわ)と、さざ波に流してしまえばいいことなのでした。

 

 子育てに文字通り一生懸命になって、自分のことなど後回しだったころ。ふと、誰もが感じるのと同じように社会から取り残されている気分になったときがありました。

 もしこのまま私が死んでも、誰も私のことを知らなくて、葬式に訪れる人など誰もいやしない。

 それは社会から忘れ去られているという恐怖でした。そこから仕事復帰などに取り掛かったりしたこともあったわけですが、私はまた「働きたくても働けない」状況にいました。そんな私に価値はなにも無いのでしょうか。

 ある物語の中で、病で話もできず、体を動かすこともでいないその人に救われる若者がいたのでした。詳しいストーリーは忘れてしまったけれど、ただいつも若者に(今日も来てくれたのだね)といわんばかりに目を細めてくれる。(うれしいよ)という表情を見せてくれる。それだけが、若者の心を癒してくれた日々があったのです。その物語は、誰もが認めるような、大きななにかを成し遂げるような何者かにならなくてもよいことをおしえてくれました。

 名も知らない人の行動が、心に残ることがあります。ずっとあとになって、誰が言ったのかもすっかり忘れてしまっている言葉に救われることがあります。名前を憶えていない誰かとの記憶が、ふと笑みを運んでくることがあります。私はその誰一人の葬式にも赴くことはできません。だってどこの誰なのかも知らないのですから。
 ある日の朝礼で「落ちている糸くずを拾ってくれていた。事務所を大切にしてくれているのだなとわかる。ありがとう」と言われたことがありました。見ている人がいるなんてびっくりでした。とてもうれしかったことでした。

 どこかで見てくれる人がいる 知ってくれている人がいる

 それはとてもやさしく、うれしいことです。でも、本当に孤独を抱えるときだってあります。会う人はいても、心までは見ることができなくて、苦しみをわかってもらえないときがあります。

 それでも、わたしだけは知っている。わたしがわたしであることだけは。

 私は私で在り続けたいですし、私らしくない何者かには、なりたくはないのです。




 どうしても、嫌いなタイプの人間がいます。

借りてきた言葉、受け売りの言葉をあたかも自分の言葉のように操る人
言葉と同じように他人を操る人

 どうしても、どうしても気持ち悪さが先立って、ともかく関わり合いになりなくないと思ってしまいます。これは私の投影でしょうか。鏡でしょうか。私にも同じところがあるのでしょうか。それを嫌悪しているのでしょうか。そう考えると苦しくなってしまいます。
 こうなる可能性は私にも充分あるのかもしれないなと、今、思いました。

 多くを知ろうとすることは、それだけ多くの言葉に出会うことになります。自分のなかに落とし込むことなしに、理解なしに、それらの知を使いまわそうとすれば、瞬時に「借りてきた言葉」「うけうり」になりえます。自分の言葉ではないものです。

 私は、自分の言葉で語りたい。自分の頭で考えたい。

 きっと、どうしてもどうしても私が嫌いだなと忌み嫌うタイプの人は、私にとって戒めなのかもしれません。そういう人に出会う時はより気を引き締めろということなのかも。そう考えれば、少しだけなぐさめになるかもしれません。

 良い言葉、影響力の大きい人の言葉は、巻き込みが強いです。うっかり同意や共感しすぎることで、かえって自分を見失い、同調にまかせてしまうことになりかねません。その距離をとることがたぶん下手なほうですから、きっとそういうサインだったのかもしれないなって今は思います。

 出会いは一期一会。どんな出会いもありがたいものです。


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