贈り物をたくさん
何をこの子にあげられるだろう?なにを用意できるだろう?
やっぱりそんなことを想ったりすると思うんです。すると、どうしても(親のチカラが足りないんじゃないのかな)という不安に襲われることになって、それは経済格差や教育格差という言葉に回収され、あたかも社会が豊かでないのが悪いという方向に向いてしまっているのだなと、たびたび目にしている気がします。
贈る / 与える
親になってみると、わたしたちは持てうる限りのものを、できるだけたくさんこどもに持たせたくなります。それはたぶん「与える」のだと思います。おとなたちも「こどもにのこしたいもの」がなにかについて、真剣に考えることでしょう。そして「のこせないかもしれない」ことについて、ときどき悲しみや不安を覚えているかもしれません。
与えられる喜びは、やがて「贈り物」を持つという、なにかしらの責任のようなものさえ感じられてきます。
こどものために何かを用意しなければならない
なにかを準備しなければいけない
計画的に
将来を見据えて
こどものために
こどもが困らないように
それが、親の務めですよ…と
でも、どうなんでしょうか。
こどもが生まれた日。赤ん坊がやってきた日。
それは、こどもに命を与えた日だったでしょうか。きっと違いますよね。
うん。きっと違う。
「来てくれて、ありがとう」って、きっとそんな気持ちでしたでしょうし、赤ん坊と自分と、なにか別の存在すらも感じていた心地だったのではないかしらと思います。だって、それくらい不思議で、神秘的で、頭ではわかっているような、でもそれでは割り切れないなにかに触れたような、遠いなにかを思い出すかのような、そんな心地になるからでしょう。
それはきっと贈り物。
贈り物は
贈る人には、贈る自由があります
受け取る人には、受け取る自由と受け取らない自由があります
贈り物を受け取っても、それを開けない、つまり自分のものにはしない自由もあります。そのまま別の人に手渡すこともできます。
贈り手の贈る気持ちと、贈り物は別だからです。
相手が受け取らないかもしれないと心配することは、相手が自分で決める自由を奪っています。心配しないで、どんどん贈ってみたらいいと思うの。
贈り物が、予想していない誰かに渡ることも、楽しんでしまえばいいと思うのです。
そして、それは「送るもの」のすべてに通じることですなんですね。
なにを送りますか。贈り物ですか。それは祝福とよろこびに満ちていますか。感謝に満ちていますか。誰かの笑顔が描けますか。贈り物のバトンになりそうでしょうか。
情けは人の為ならずといいます。
めぐりめぐって、まためぐる。そうして、見知らぬ命がつながっているんだなあと伝える贈り物をしてみてもいいかも。
贈り物を受け取るために、両手をひろげることも忘れずに、ね。
両手を広げると、胸がひろがって、大きな深呼吸ができます。腕をめいいっぱい両端にのばすと、さらに気持ちがいいものです。
太陽の日差しをそうやって受け取ってみるのも、贈り物を受け取る練習になるかもしれません。
「あぁ、なんだ。たったこんなことでいいんだ」と思えるかもしれません。だって、両手を広げる。それだけでいいんですから。それだけで、気持ちが驚くほど静かに落ち着いていくのを感じます。
花ってこんな気持ちかな。
土の中で待ちわびる日差しはこんな感じかな。
雲の向こうにはいつだって、こんなあたたかさが待っているんだ。
さ、ひなたぼっこを計画してみましょ。
おすすめは、お手軽に、朝日の昇る時間帯のベランダで。
季節の移り変わりを肌で感じます。
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