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タクシー小話 15 「上品な言葉遣いが過ぎるおばあさん」

「どうも、こんにちは」
 銀座に古くからある百貨店、松屋銀座の前で手を挙げたのは上品な衣服を身にまとった老婆だった。言葉一つをはっきり発音する、なだらかで美しい語勢、この一言だけで気品のある方だと察知した。
「少しばかり荷物が多くなります、ごめんあそばせ」
「かしこまりました。全然かまいません」
 やはり上品である。ごめんあそばせ、などという言葉はこれまでで初めて直接聞いた。
 トランクヘ荷物を載せ、青山方面へと向かう。
「銀座もだいぶ、人通りが戻ってきましたわねえ」
「そうですね」
 コロナウイルスによって銀座にかかわらず人の行き交いは減っていたが、コロナ以前と変わらぬ人波が戻ってきているような気がする。
「コロナウイルスの前は外国人観光客が多かったでしょう」
「はい」
「わたくしはやっぱり、今の方が落ち着いていて良い気がするわ」
「確かに、そうですね」
 正直どちらでもいい。そこまで銀座の様相にこだわりはない。しかしゆったりと、落ち着きのある口調で話す老婆に絆されるようにごもっともといった返事をしていた。
「欲を言えば、昔みたいなもっと上品な銀座であってほしいわね」
「昔はもっと違ったんですか?」
「ええ、わたくしの小さい頃は銀座なんて着物を着ていく場所だったし、若い頃も大層なお洒落をして訪れるところでしたのよ」
「へえ、そうだったんですね」
 老婆の口調は変わらず上品。昔の銀座を知っているところからも、東京育ちのマダムであることが窺える。
「今なんてこんなラフな格好で来てる人が多いけれども、ほんと虚しいったらありゃしない」
 窓の外を見ながら嘆く老婆の言葉には、時代が進んでいく悲しさも含まれているように見えた。
 それよりも、ありゃしない、という言葉も日常の中で聞くには初めてで、気に留まった。ありゃ、で音が上がり、しない、で下がる。その特徴的な音が耳に残る。ありゃしない。

「昔から知ってらっしゃるんですね」
「ええ、知ってるわ。運転手さんなんてお若いからそんな昔のことは分からないでしょうけど、もっと活気のある街だったわ、のよ」
「へえ」
 思わず語尾が気になってしまったが、おそらく言葉の羅列を間違えただけだと解釈して会話に戻る。
「なんたって、モダンでね。銀ブラなんて緊張してしまうくらいだったんだから」
「へえ」
「でも、今それを言ったってしょうがないことよ、ね、運転手さん」
 そうですね、と無難に答えた。

 しばらく静かになった後、再び話が始まった。
「運転手さんはどれくらいこの仕事をやってらっしゃるの?」
「3年くらいですかね」
「そうですか。じゃあもう、道もだいぶ詳しくなられてらっしゃるんじゃないですか?」
「全然です、複雑な場所も多いので」
「そうですか。世田谷の道なんて本当に細かくて複雑でらっしゃいますもんねえ?」
「ああ、はい」
 少し理解に遅れた。僕に対して言っているであろうが、複雑でらっしゃいますもんね、という言葉があたかも世田谷を立てたように聴こえてしまった。世田谷が人であるみたいに。
「わたくしもねえ、車を運転していた頃には世田谷も通ったけれども、一方通行が多くて迷路みたいで、難しいったらありゃしない」
 出た。ありゃしない。あまり聞かない分、気に留めてしまうがそれでもこの老婆が発するとごく自然に思える。
「間違ってぶつけたりでもしたら大変だしねえ」
「はい、僕も事故には気を付けてます」
「素晴らしいですよ。怪我でもしたら大変ですもの。車の運転は無茶しない」
 今度は完全に違和感が拭えなかった。無茶しない、がありゃしないの発音になっていた。いや、普通に発音したのだが僕が「ありゃしない」に影響を受けていて「無茶しない」が「ありゃしない」と同じ発音に聴こえたのかもしれない。どっちなのか分からない。

 その後、5キロ近い距離をお送りしていたが「無茶しない」の正しい発音を思い出そうと頭のなかで繰り返すが益々分からなくなってしまった。
 送り終えてようやく一人になり「無茶しない」と口に出してみると、やはり正しい発音が分からなくなっていた。

  煩わしいったら、ありゃしない。

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