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長編連載小説 Huggers(69)

小倉  11

 

 6月下旬のある日曜日の昼前、小倉はJR山手線、渋谷駅のホームに降り立った。

 東京に行く勇気が出るまでには、しばらく時間がかかった。

「亀はマンネン」の遺言を読んでから、義理の母親に以前から勧められていた、大学病院付属の認知行動療法の教室に通うことを決めた。
 担当になった療法士に励まされ、自分でも毎回宿題をこなす努力をした結果、3か月ほどでだいぶ行動範囲が広がった。

 それでも新幹線に乗るには相当の覚悟が必要で、強めの薬を飲まなければならなかった。

 そこまでして東京に行こうと思ったのは、何の気なしに「ハグ」という語を検索していたとき、ネットのニュースで「沢渡」という名前と「フリーハグ」という語が目に飛び込んできたからだった。
 このニュースの「沢渡」が、裕子のハグを受けた男だということが、直感的に小倉にはわかった。

 彼に何が起こったのか?

 どうしても確かめなければならない気がした。

  ハチ公口の改札を出た途端、小倉はあまりの人の多さにめまいを感じた。

 駅の通路も、デパートの入り口も、ハチ公前の広場も、どちらを向いても人、人、人だった。しかも、若いカップルから老夫婦、小さい子ども連れ、制服の高校生の集団など、種々雑多な人々だった。こんなにたくさんの人を一度に見たのは生まれて初めてではないかという気さえした。

 気分が悪い。上着を脱いでいたにも関わらず、じっとりと額に汗がうかぶ。発作が起こるのではないかという不安を必死で追い払いながら、小倉は人々の間を縫って、スクランブル交差点のほうへ進んだ。

 その男は、ニュースに出ていた通り、横断歩道を渡った向こう側、ツタヤのビルの前に立って「FREE HUGS」というボードを胸の前に掲げていた。ニュースでは数人で立っているとあったが、今日は一人のようだった。

 空は曇っていて、今にも雨粒が落ちてきそうな気配だ。人々は、降り出さないうちに目的地に着こうと急ぎ足で、ボードを持った男には無関心に通り過ぎていく。
 男はめげずに次々と、道行く人に目を合わせては軽く微笑みかける。

 ちょうどその時信号が青に変わり、引き寄せられるように、横断歩道に向かって一歩踏み出したとき、小倉の後ろから彼の肩をかすめるようにして、飛び出していった女性がいた。
 小柄な女性は、小走りに横断歩道を渡り、まっすぐに、「FREE HUGS」のボードを持った男のほうへ近づいて行き、目の前で立ち止まった。
 そのあと何が起こったのか、見届けることはできなかった。

 横断歩道を渡り始めたたくさんの人にさえぎられ、二人は小倉の視界から消えた。人の波に後ろから押し流されるように、小倉は横断歩道を渡り始めた。

 交差点の真ん中へんまでは、人の流れに乗って行けた。

 それから唐突に、小倉は方向感覚を失った。

 前からおおぜいの人が来る。右からも、左からも、斜め前からも斜め後ろからも、洪水のように人が押し寄せる。

 小倉は立ち止まった。

 人々が彼を避けながら通り過ぎる。みんな、自分がどこへ向かっているのか知っている。歩き方を心得ている。進むべき方向を。

 だが、自分はどこへ行こうとしているのか?

 恐い。理屈ぬきの恐怖と不安が全身をおおいつくす。心臓がばくばくと打ち始める。息が苦しい。足が動かない。小倉は顔をおおい、その場にしゃがみこんだ。

 人々はみな横断歩道を渡り終え、小倉だけが交差点の真ん中に取り残された。

 

 静かだった。

 小倉の予想に反し、クラクションを鳴らす車は1台もなかった。人々のざわめきは効果音のように遠くで聞こえた。

 一人取り残された小倉のほうに向かって、数人の足音が近づいてきた。

「大丈夫ですか?」

 声が聞こえた。顔をおおっていた手をはずし、声のするほうを見た。中年の女性だということはわかったが、ちょうど顔のあたりがぼうっと光っていて、よく見えない。

「大丈夫です」やっと声を出す。

「立てますか? 救急車呼びますか?」

「いえ、自分で立てます」

「肩を貸しますよ」女性以外にも何人かの人がいる。男の声もする。だがみんな光っていて、顔がよく見えない。とうとう目もおかしくなったのだろうか、と小倉は思った。

「すみません」

 誰かの肩につかまって立ち上がり、支えられるままに歩き始めた。

「ありがとうございます」

 小倉は歩きながら言い、どちらに向かって歩いているのだろうかと顔を上げて驚いた。人々がみな、光っていた。

 灰色の雲が空全体をおおい、昼だというのに夕方のように暗いなか、信号待ちに並んでいる大勢の人たちが、視界に入る範囲一人の例外もなく、淡く優しい光を放っていた。

「おおきに、ありがとうございます」

 涙があふれた。

「大丈夫? もうすぐベンチがあるからね」

 泣きじゃくる小倉が心配になったのか、肩を貸してくれている中年男性の妻らしい女性が、小さい子に話しかけるような口調で慰めてくれる。

 あなたが美しいから泣いているのだとは言えなかった。

 そしてあたり一帯をほのかに輝かせている、人々の放つ光があまりに美しいからだとは。

 

 青信号まるまる一回分足止めされた車たちをそのままに、人々が再びスクランブル交差点をにぎやかに渡り始めた。

                                  〈了〉

長きにわたりお読みいただき誠にありがとうございました。
心より感謝いたします。

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