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長編連載小説 Huggers(17)

裕子のところに、今日もセッション希望者がやってくる。

          裕子 3・つづき


 ドアを開けると、思いがけず若い男の子が立っていた。二十歳くらいだろうか、学生風に見える。デニムのジーンズにストライプのシャツを着て、髪は短く、全体的に清潔感があるが、年齢に似合わない疲れた表情をしている。

「美杉薫さん、ですか」と裕子が尋ねると、目を伏せてうなずいた。
 どうしよう。事務局のミスだ。性別を見落としたに違いない。とっさに判断できず数秒間迷ってから、「よく来てくださいましたね」とスリッパを指差した。

 セッションをする和室にはいつもの座卓と、それをはさんで座布団が二枚セットしてある。青年はどちらにすわるか迷うようなそぶりを見せた。
「どちらでもいいよ。両方すわってみて、落ち着くほうにしたら」
 そう声をかけて台所へ行き、緑茶をいれて戻ってみると、青年は窓に背を向けて所在なげに正座をしていた。
「足、くずしてもいいよ」お茶を出しながら言って、裕子も向かい側にすわる。
「お茶どうぞ。疲れたでしょ。ここ、すぐわかった?」
 青年はうなずいたが、こわばった顔つきは変わらず、お茶にも手をつけようとしない。世間話で緊張をほぐすのはあきらめて、セッションの説明にはいる。

「二十歳は過ぎていらっしゃいますよね」
学生らしき受講者には、まず必ず確認する。未成年者にセッションを受けさせることはできない。
「セッションの内容と注意点についてはあらかじめ、ご紹介者と本部からのメールでご理解いただいているということでよろしいでしょうか?」
 申込みの時点で規約に同意し、医療行為ではないので治療効果は期待できないこと、精神科で診療を受けている場合は受講できないこと、セッションの効果には個人差があること、などの点については了解済みであるはずだが、慎重を期してもう一度たずねる。
 青年は青白い顔でうなずく。
「ハグ自体は五分から十分で終ります。そのとき何が起こるかは人によって違います。でも何が起ころうとも、それはすべてあなたの内面で起こっています。身体に危険が及ぶことはありません。すべてを私に任せて、楽にしていてください。始める前に、何かお話なさりたいことはありますか?」
 青年はぼんやりと裕子を見た。
「話? 何か、話さなくちゃいけないんですか」
「いいえ」裕子は急いで言った。
「そんな必要はないの。でも、話を聞いてほしいとおっしゃる方も多いので」

 裕子のところに来る女性たちは特に、セッションを受けにきた理由などを事細かに話したがる場合が多い。
 ヒーリングやスピリチュアルなカウンセリングなどを渡り歩いてここにたどりつく人も多く、彼らは悩み事を他人に話すことに慣れていて、実に簡潔にまとまった話をしてくれる。
 実際にはハグセッションでは事前のカウンセリングや、アドバイスはない。だがあらかじめ話をすることでハートが開かれ、セッションを受け入れやすくなる効果があるとも言われているので、希望があれば聞くようにしている。

「結構です」硬い表情を崩さず、青年は言った。
「では、始めましょうか」
 裕子が立ち上がると、相手も立ち上がった。裕子は茶器を片付け、座卓の脚をたたんで壁に立てかけた。
「なぜ、片付けるんですか」
 少し不安そうに、青年が言った。ただハグをするだけなら、座卓があっても十分な広さがある、ということだろう。
「心配しなくていいよ。念のため」
 とだけ言って、彼の前に立つ。

「目を閉じてください」と、裕子に言われる前に青年はもう目を閉じていた。観念した様子で、まるで自分をいけにえの羊かなにかのように差し出している。一体紹介者はこの子にどんな話をしたのだろう。
「力を抜いてね」
 言いながら、上半身だけをそっと相手の体に合わせ、両手を彼の背中にまわず。青年の体がびくっと震えた。
「こわがらなくていいよ。もう少し、リラックス。そう。あなたも、私の背中に手をまわして。ぎゅっとじゃなくていいから、軽くね」
 青年はロボットのようにぎくしゃくと、言われた通りに両手を持ち上げて、裕子の背中に回す。その両手は少しさまよったあと、裕子の肩甲骨の下のくぼみあたりに落ち着き先を見つけた。

 それを確認して、裕子は頭の中の思考を止める。いつもとりとめなく頭の中に浮かんでくるおしゃべりが止まり、あとに静寂だけが残る。意識の広がりを感じる。体の内と外を隔てる壁が消え、やがて体の感覚がなくなっていく。

 どれだけ自分を消せるかが、ハガーとしての実力の差なのだと、裕子をマンツーマンで指導してくれたアメリカ人女性のアウェイクンドは言った。ハグの才能は生まれつきのもので、個人差はほとんどない。後はただセッション時に、生きていくのに最低限必要な機能だけを保ちつつ、自分を空白にする修練を積むのだという。養成コースではそのやり方を教わった。
そのままじっとしていると、やがて青年の体から不必要な力が抜けていくのがわかる。体が触れ合っている部分の境目も消え、裕子は青年とつながり、ひとつの意識になる。後は何もすることはない。必要なことはすべて自然に起こる。

 ハグが終った後、青年は激しく泣き、それから笑い、かなり長い間ハイになってしゃべっていた。反応は人によって全く違うので、そのたびに新鮮な驚きがある。女性ではよく立ちくらみのような状態になったり、ごくまれに気を失ったりする人もいるため、けがをしないように部屋を片付けている。そうした反応に対し、裕子はただその場にふさわしいと感じられることを行う。それが何かはそのときにならないとわからない。相手を受け止め、話を聞き、必要とされる言葉を与える。それだけだ。

 だいたい様子が落ち着いてきたら、またお茶を出し、セッション直後の注意点と、しばらくしてだんだんに起こってくる好転反応や感覚の変化への対応のし方、心配なときに相談できる本部の緊急連絡先を教える。
「・・・・・・程度の差はあれ、感覚が鋭くなります。光や色、音に対しての感受性が強まって、世界が今までと違って見えたりします。特定の色がついて見える人もいます。人によってはそれをひどくつらく感じることがあります」
永野から転送されてきた沢渡に関する報告メールにあった「短期間での著しい変容による環境不適応」というのはこのことだ。
「そのような場合には、本部に連絡していただければ、窓口で対応します。フラワーエッセンスのプラクティショナーを紹介する場合もあります。あとは感情のコントロールがむずかしくなり、急に泣きたくなったり笑いたくなったりする人もいます。他人の言動に敏感になる傾向もあります。できれば二、三日は学校や仕事を休んで欲しいとお伝えしているのはそのためです。一時的なものですぐに落ち着くので心配はいりません。ただ定期的に本部から送られるフォローアップメールの指示に従い、きちんとアンケートを提出してくださいね」

 言いながら、こうした注意点を伝えられなかった沢渡のことが頭を掠めた。セッション後の数日間を彼はどのように過ごしたのだろう。

 目の前の青年は今、夢見るような幸せそうな目つきをしている。口元には微笑が浮かんでいる。さっき部屋に迎え入れたときとは別人のようだ。実際にはセッションで起こるこの深い至福の感覚、世界や他者への限りない愛情、すべての人や物や自然のなかに美しさを見る能力は、いったん受講者を魅了したあと、やがて完全に失われる。いってみれば振り子が一時的に大きくプラス方向に振れた状態から、崩れたバランスを取り戻すために自然にマイナス方向に振れるような作用だ。準備のできた受講者ならほぼ心配はいらないが、その数日間に感覚の変化に耐えられなかったり、感情の抑制がきかずトラブルを起こしたりする者がたまにいるため、細かいフォローが肝要になる。しかし十分なアフターケアさえできれば、受講者は徐徐にニュートラルな位置に落ち着き、多少時間はかかっても、外側の世界にまどわされることのない内面の平和を、自分で維持することができるようになる。
「ここには、もう来てはいけないんでしょうか」
 青年のすがるようなまなざしをしっかり受け止め、裕子は首を振る。
「それはできません。残念ながら、ハグの効果は一度きりなんです。また来ていただいても、同じ感覚はもう得られません」
「わかりました」
 相手は少し落胆したようだった。圧倒的な幸福というものを味わってしまった後では無理もない。だが好転反応期が過ぎてニュートラルな状態に入れば、刹那的な至福感などというものにはあまり価値を見出さなくなるはずだった。
「本当に、ありがとうございました」
 帰りがけに一礼した青年の晴れやかな表情を見て、裕子はしみじみとハガーであることの幸せと充実感をかみしめる。けれどドアを閉めて廊下を振り返ると、頭の中にはもう何十回となく思い浮かべたあの日の記憶がまたよみがえってきた。

 ハグが終ったあと、沢渡は放心したように手で顔をおおい、廊下にすわりこんでいた。
しばらくして我に返った彼はぼんやりと、「僕はどうしたんでしょう?」と言った。
「帰りがけに、気分が悪くなられて、すわりこんでしまわれたんです。もう大丈夫ですか?」
 内心冷や汗をかきながらも、もっともらしい顔で説明すると、彼は焦点の定まらない目で裕子を見上げ、何かつぶやいた。
「え?」
「体って、何のためにあるんだろう」
 彼の顔には自らセッションを希望してやってきた受講者にあるような恍惚とした表情や微笑はなく、空虚な感じがした。それから沢渡は立ち上がり、答えられずにいる裕子にはもう関心を失ったように、少しふらつきながら玄関のほうへ歩いていった。裕子にできたのはただ、彼に靴べらを渡して「もしかしたら何か変わったことがあなたに起こるかもしれません」と告げることだけだった。

 裕子は今まで、自分のハグが受講者にもたらす効果について、絶対の自信があった。セッションの結果について心配したり、思い悩むことなど一度もなかった。人生のほかのことに関しては迷ってばかりだけれど、ことセッションに関しては決してぶれることのない中心軸があった。
 だが今回のハグの起こり方、何かに取り付かれたような制御不能な自分の状態を思い出すにつけ、その自信は激しく揺らぎ始める。いくらホルダーや永野に大丈夫だといわれても、動揺は止まらない。
 裕子は廊下に立ち止まったまま、胸に手を当てて目を開じた。
 見届けなければ。裕子は思った。協会がなんと言おうと、自分のもたらした結果は自分で見届けたい。これからセッションが広まっていくのなら尚更のこと、自分が世界に何をしようとしているのかを、きちんと知っておきたい。(つづく)


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