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「独りでもやる人」と一緒にやりたい

私は「独りでもやる人」と一緒にやりたい。

私は基本的に独りでもやる。独りでやる時間が好きだ。でも独りでは続かないことも知っている。独りの孤独や寂しさに耐え続けられる強い人間でもない。独りがいいけど、独りは嫌だ。

独りの孤独や寂しさに耐えかねて、「独りではやらない人」と一緒にやろうとすると、更なる悲劇が待っている。「独りではやらない人」は「人と一緒でもやらない人」であることが大半で、一緒にやっているはずなのに、独りである時よりもむしろ孤独や寂しさが深まるのだ。

一緒にいるのに、独りより、独り。

耐えられない。

「本来的に独りでやること」をあえて一緒にやろうとする行為を、私は「連れション」と呼んでいる。

「連れション」は一種の「仲良し確認会」であって、もはや排尿は目的ではない。周囲を見渡すとこの社会は「連れション」的な「内輪」ばかりだ。孤独は嫌だが、小便くらいゆっくり独りでしたい。

基本は独りでやりながらも、一緒にもやる。

一緒にやりながらも、独りにもなれる。

そんな関係や空間が欲しくて仕方がなかったけど、既存の集団や組織ではどうしたって無理だった。一緒にやってるはずなのに、いつも孤独で寂しかった。独りでやりたかった。一緒にやりたかった。どっちも無理だった。

「独りでやる」と「一緒にやる」は両立不可能だと思われているが、本当か。個人どうしが丁寧に関係を醸成すれば、そして同調圧力の発生を回避すれば、可能ではないのか。

そんなことを考えながら、自営を始めて4年半、右往左往しながらも、房総竹部が「独りでやる」と「一緒にやる」が両立する場として、この社会においては明らかに異質な場として、機能し始めたのを感じる。

独りでやりたいけど、独りだけでやり続けるのは嫌だし無理。

一緒にやりたいけど、終始一緒にやらないといけないのは嫌だし無理。

こんな一見すると「わがまま」に見える欲を捨てずに歩き続けてきたら、少しずつ形になってきた。「わがまま」は幼稚か。「我が儘」であることが、何よりも大事ではないのか。「我が儘」を抑制しにかかる「連れション」的同調圧力に屈するくらいなら、私は「わがまま」を通したい。

我が儘に、共に。

これからもそんな感じで生きていく。

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