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自由になるために、技術を

音楽にしても手仕事にしても、自由になるためには技術が必要で、技術がないまま自由に振る舞おうとしても、その自由の範囲が非常に狭いので、結局それは不自由となる。

では技術を身につけるために学べばいい、と簡単に考えてはいけない。

この社会においては、技術を身につけようとすると、既述の技術不足による不自由を遥かに上回る不自由を押し付けられることが圧倒的に多い。

それは大抵以下のような呪詛の言葉を伴う。

「〇〇でないと△△ではない」
「〇〇ができないやつは△△にはなれない」
「向いてない」

結果どうなるかと言うと、技術を身につけようとかつて学んだ人ほど、その不自由を押し付けようとする暴力にさらされ、その技術を身につけようとする意欲をトラウマティックに一生削がれ続けるのである。

学校教育がその代表格。

体育のせいで私は運動そのものに苦手意識を持つに至ったが、それもまた「運動とは競うものである」という不自由を体育の授業において押し付けられたからに他ならない。

音楽でも図工でも英語でも同じことが起きている。

だから手仕事を始めようとすれば「私不器用だから」、語学を始めようとすれば「英語が苦手で」、音楽を始めようとすれば「音感がなくて」、といった妙な自己開示が始まる。そんなことどうでもいいはずなのに、不自由を押し付けられた記憶は一生残る。

ではなぜ「教える側」は不自由を押し付けるのかと言えば、ひとえに呪詛の受け売りであり、そこで起きているのは呪詛の連鎖である。自分がかつてかけられた呪いを、次の世代に対して無自覚に(大抵は善意のもとに)引き継いでいるのである。

結果、技術は継承されず、生き残った数少ない技術の継承者は、むしろ呪詛の継承に勤しむ。

技術がないと自由になれないのに、技術を得ようとすると、技術がない状態よりもより不自由になる。

地獄である。

そのヒントになるかどうかわからないけど。

イト(5歳)は、アルモンデ花いけ部(路端の草花を自由に生ける部活動)に最初から参加していて、いつも自由に草花を生けては、部長のひろえさんからアドバイスをもらう。

今日帰ったらイトは、レゴで花いけをしていた。



場が場なら、人が人なら、不自由を背負い込まずに、呪いをかけられずに、技術を学ぶことはできるのだ。

そういう場は「正統」な人たちからは異端視され攻撃されるか、白眼視され黙殺されるかのどちらかであるが、まあそんな人たちは放っておけばいい。

アレロパシー的ではない生存戦略を。

セイタカアワダチソウと戯れながら、そんなことを思った。

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