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いっそゴミなら、せめて「マシなゴミ」を

私は日々ゴミを作っている、という自覚がある。

私は竹細工を生業にしていて、様々なものを竹で作る。ハタから見たら、素敵なモノが作られているように見えているかもしれないし、「ゴミじゃないよ」と思う人もいるかもしれない。

でも率直な実感として、私はゴミを作っている。

なにも私だけではない。

今日も世界中で多くの人々が、気が遠くなるほど膨大な量のゴミを作り出している。

少なくとも私には世界はそのように映っている。

一方でこの世界からは「それはゴミではない」という自己暗示めいた叫びのような呟きも確かに聞こえる。

「ゴミではない」

それを必死で信じ込むために、様々な詐術を弄したり概念装置を案出したりしている、ように私には見える。

マクドナルドのゴミの自覚

そんな中、マクドナルドの取り組みは私の目を引く。

子ども向けのハッピーセットに付いてくるプラスチックおもちゃの回収ボックスを、なんとレジ脇に設置しているのである。

これはつまり相当なコストをかけて流行りのコンテンツを駆使して付録のおもちゃを開発し、ポスターやCMでその魅力を全力で伝えながら(つまり「ゴミではない」というメッセージを伝えながら)、そのすぐ側に回収ボックスを置いて「ゴミである」ということを認めきっているのである。

しかもそれらのおもちゃが「ゴミである」ということを認めきった上で、今度はそれを「トレーに生まれ変わります」と、また最初のプレゼントとは別のカタチで「ゴミではない」という価値提示をしているのである。

これはなかなかできることではない。

高級ブランドにそれができるかどうか想像してみれば分かる。PRADAやHERMESやGUCCIの会計レジのすぐ横に「回収ボックス」が設置されている様子を私はうまく想像できない。そんなことをしたらブランドの魔法(呪い?)が解けてしまう。「それゴミですよ」などと告げようものなら、売る側も買う側も「ゴミじゃない!」と怒り狂うに違いない。

だが、マクドナルドのおまけのオモチャだろうが、高級ブランド品であろうが詰まるところゴミであることに変わりはない。高級ブランドはそのゴミ性を隠蔽している分むしろタチが悪い。そのゴミ性を認めた上で更なる手を打っているマクドナルドの方が、私からはよほど社会批評性に富んでいるように映る。

とはいえマクドナルドが大量のプラごみを作り出している、という罪が消えるわけでは全くないし、トレーに作り替えたところでゴミはゴミであり、特にプラごみの「ややこしさ」は軽減されてはいない。

Downcycleという罪悪

ところで、upcycle(upcycling)という概念がある。

アップサイクリング(Upcycling)は創造的再利用とも呼ばれ、副産物や廃棄物、役に立たないまたは不要な製品を、より良い品質と環境価値の新しい材料または製品にアップグレードして役立てるプロセスである。日本語ではアップサイクルとも表記される。
ウィキペディアより

一時期福祉施設でこのupcycleに携わっていた経験から言うが、これがだいぶ怪しい。

大抵は「ややこしいゴミ」をわざわざ「よりややこしいゴミ」にする愚を犯しているケースが多い。それはむしろupcycleというよりdowncycleと呼ぶに相応しい。

例を挙げよう。

ハワイに流れ着く大量のプラスチックゴミの問題が深刻であるのを見かねて、それをレジンで固めてアクセサリーにしている取り組みがある。この手の取り組みは「アースコンシャス」で「サステイナブル」だと称揚されがちだ。

だがどうだろうか。

残念ながら、私にはプラスチックという「ややこしいゴミ」を集めて細工して「よりややこしいゴミ」を生み出しているようにしか見えない。そのアクセサリーがまた大量に海に捨てられ砂浜に流れ着く未来しか見えない私が悲観的すぎるのだろうか。

いや、そんなことはなかろう。

ただでさえ「ややこしいゴミ」であるプラスチックを、別の「ややこしいゴミ」であるレジンで固めて、更に別の素材まで組み合わせる。素材単体での「ややこしさ」もさることながら、異なる素材を寄せ集めるほどそのゴミの「ややこしさ」は倍加する。そういう意味で、この手の取り組みはどう考えてもdowncycleにしか私には見えない。

世の中「ややこしいゴミ」だらけ

先日、愛車ラパンの後部座席に、灯油をこぼした。

シートを拭いても灯油のきつい匂いが取れないため、シートをばらそうとした。

ところが、どうにもシートを解体できない。調べても分からない。仕方なく刃物でシートを切り裂き、中のスポンジも刃物で切り刻んでいって、衝撃を受けた。

フレームやシートやスポンジといった様々な素材が、なんと接着剤で固定されているのである

スズキが日本のメーカーであるせいか完全に買い被っていた。これはまごうことなき「ややこしいゴミ」ではないか。素材単体の「ややこしさ①」、更に素材の種類が増えることによる「ややこしさ②」に加えて、その素材同士の分解不可能性による「ややこしさ③」までもがプラスされ、もはやその合わせ技の「ややこしさ」に昏倒しそうである。

せめて「マシなゴミ」を

そう考えてくると、私のモノ作りの「竹以外使わない」という方針の理由がはっきりと見えてくる。

つまり竹という素材は、素材単体での「ややこしさ①」がだいぶ少ない(加工に技術を要するとか、放っておくと増えて荒廃するとか、竹特有の「ややこしさ」はもちろんあるが、あくまで環境負荷としての「ややこしさ」に限って言えば)上に、竹に別の素材(輸入の籐、ボンド、針金、ネジ釘など)を合わせて「ややこしさ②」を増してしまうことを回避したいがために、あくまで「竹のみ」にすることで、

せめて「マシなゴミ」を作ろうとしている、ということらしい。

なぜ自分事なのにこんな書き方になるかと言えば、こうやって文章にして整理するまで、私自身も「竹のみ」にこだわる理由をよく掴めていなかったからである。分かったから書くのではなく、書くから分かる、そんな順番である。

「ややこしいゴミ」依存を超えて

ここまで「ややこしいゴミ」と繰り返してきたが、何か忘れていないか。そう、「ややこしいゴミ」の代表格といえば、原発の放射性廃棄物である。

我々の便利な生活は、程度の差こそあれ様々な「ややこしいゴミ」に支えられている。

その「ややこしさ」は、先述の通り、解決しようとしたはずがむしろ増してしまうような、非常にタチの悪い重層的な「ややこしさ」なので、安易なソリューションは大抵「ややこしさ」をむしろ増長させてしまう。

だから、モノ作りに携わる者としてせめて、その重層的でややこしい「ややこしさ」に対しては、考え続けていきたいし、目を光らせていたい。

「竹のみ」などと言ったところで、それは「ややこしいゴミ」に支えられた生活に伴う良心の呵責をほんの少し一時的に解消してくれる、一種の気休めみたいなものであることを、私は自覚している。

それでも同じゴミならせめて「マシなゴミ」を作りたい、と私は心から思うし、その「マシなゴミ」を作るプロセスに快楽や報酬があるからこそ、私の「マシなゴミ」を作るモノ作りは持続可能なものとなる。

いっそゴミなら、せめて「マシなゴミ」を。

これは絶望の叫びではない。

むしろ希望の歌である。

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