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「飽き」のススメ

私はドがつくほどの飽き性だ。

ヒトもコトもモノも、分別なく飽きる。飽きたら無理せず距離を取る。残念ながら飽き性はすこぶる評判が悪い。

ただここでひとつ断っておきたい。

飽き性は「飽きっぽい」「飽きを感じやすい」「堪え性がない」とどうにもネガティブとらえられがちだが、私の考えはちょっと違う。

飽きはみなに分け隔てなく降り注ぐものであり、飽き雨前線は季節を問わず年中発生しては消えていく。誰ひとり飽きから自由になどなれない。と思う。

では「飽き性」とは何かと問われれば「飽きの声に耳を傾ける生き方」「飽きを無視しない態度」、そして時に「飽きを行動や決断につなげる姿勢」ではないかと思っている。

具体例をあげよう。

私はビール党である。だが大好きなスーパドライでも、日によっては二口目には飽きることがある。

私は甘党である。だが大好きなティラミスも4口目くらいには飽きが来ることがある。

悲しいかな、これがなかなか理解されない。

大抵の場合、「好き」と「飽き」はトレードオフの関係だと見なされがちだ。好きなら飽きないはずだし、飽きた時点で好きと言う資格なし、といった具合に。

「お前に飽きたんだよ」

というのは大抵の場合は別れ文句であり、好きを取り戻す望みは絶たれたかに見える。

だけどそれって実はおかしい。

プリンが好きだからといって一日三食どんぶり一杯のプッチンプリンを食べさせるのは拷問だし、広瀬すずが好きだからといって広瀬すずが出てるドラマや映画やCM以外何も見れないテレビをプレゼントされても困る。

つまり「飽き」は「好き」の反義語でもなんでもなく、むしろ「好き」を「好き」として維持するために身体が発するストッパーのような役割を担っているのではないか。

それ以上食べてもうたら、プリン嫌いになんで…やめときって、悪いこといわんから、なぁ…
それ以上観てもうたら、すずちゃんの顔見るの嫌になんで…お姉ちゃんのアリスちゃんもべっぴんさんやで…

これが飽きの声である。

飽きの声は脳からではなく身体から発せられる。脳はむしろ飽きの声を無視したがる。

いやいやプリン好きやったら、腹がはち切れるほど食べた方がええて…ほれ、どや、もう一杯
すずちゃん好きやったら、他のもんなんか観る必要なんかあらへんて…すずちゃん尽くしでハッピーハッピーやろがい

これは「好き」でも「飽き」でもない、脳から発せられる欲の声だ。

欲は飽きを極度に恐れる。欲は「飽くなき○○」が大好物だ。だから欲は飽きの声に耳を傾けることを許さない。

飽きてもうたら金輪際好きには戻れへんぞ…それでもええんか?それでもええんやったらどーぞどーぞ好きに飽きたらええ、せやけどな、ほんまにええんやな、二度と帰ってけえへんぞ…

こんな脅しに近い欲の声も聞こえてくる。

だがそんなことはない。飽きたらそこで何かが終わったり途切れたりするわけではない。

中国語で「吃chi」は「食べる」の意で、そこに結果補語の「飽bao」を付けると「吃飽chibao」つまり「お腹がいっぱい」の意となる。そこにネガティブな意味はない。

おわかりだろうか。

「飽き」はいわば「満たされた状態」であり、それを超えると「溢れた状態」に達し、元の状態に戻るのが途端に難しくなる。そう、心だって胃もたれを起こす。

何かに飽きたら、そこでいったん離れればいいのである。箸置きに、心や身体の箸を置けばいいのである。ごちそうさまと手を合わせて。そうすればきっと満たされた何かは心や身体の糧となって、またその何かを素直に求めることができる。

飽きているのに、すでに満ちているのに、欲の声ばかりに唆されて、そこここであれやこれやが溢れかえって、収拾がつかなくなると、むしろ心も身体も何かを求めることが難しくなる。求めるにしても、求め方が歪む。

私はヴァイオリンも竹細工もライフワークにして一生続けていくつもりだ。

だからこそ、飽きがくるたびに距離を置いて、また身体が求めるのを待つ。

生涯続けたいからこそ、離れて待つ。

すると、早い場合には、朝には飽きて距離を置いたモノを、夕方には求めてることがある。数日置く場合もあれば、もっと待つこともある。

場合によっては、飽きたのを最後に二度と求めることはないかもしれない。みんなの「飽き」のイメージはこの一部分のみを切り取ったものだ。

だが考えてみてほしい。

飽きた時点ですでに満たされていたのだ。

それを求めようと思わないということは、ある意味「満たされた状態」が続いている、ということだ。これ自体はどう考えても悲しむべき、恨むべき、恐れるべき理由が見つからない。

「飽き」に対する悲しみや恨みや恐れは、心や身体のそれではなく、欲のそれなのだ。欲はたしかに飽きを悲しみ、恨み、恐れている。

満たされたと感じたら、にやりと口角を上げて

「飽きた…」

と呟いてみるといい。

少なくともその瞬間は欲と距離を置くことができる。

未練なく別のことを始めることができる。

ただまた求め始めることがあったら

お前、あんとき「飽きた」言うたよな、なあ、たしかに聞いたで。それがどの面下げて、どの口が「好き」言うてんねん、ああ?

なんて欲の声には耳を傾けてしまわずに、軽やかに始めればいい、存分に愉しめばいい。

また飽きが来るまで。

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