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俺の音楽変歴 〜流転の社会人編②〜

【前回までのあらすじ】
小中でピアノ、バイオリン、高校でギターを習うもどれも物にならなかった俺。諦めたシンガーソングライターの夢、成就しない恋、高校生活は終わりを告げた。大学でオケに入りバイオリンを再開、トランペットと三線にも手を出し、留学先の中国で二胡を学び帰国。新卒で楽器メーカーに入社したが3年ほどで辞め…

音楽関係の仕事をするのは、いったんやめにしよう。

新卒で入った楽器メーカーを退職し、その後は翻訳会社、出版社、米屋など音楽とは関係のない職を転々とした。その間はほとんど楽器を弾いていなかった。

だがたまたまチェックした求人サイトに、ベンチャー音楽教室の求人が載っていた。

ムクムクと音楽への未練が頭をもたげる音が聞こえた。

早速応募し採用となり片道2時間以上かけて通うことになったその音楽教室は、超絶にブラックだった。一点の曇りもない漆黒だった。

初日に出社しても誰も私が来ることを把握してない。「同期ですね」とにこやかに微笑んでくれた同日入社の女の子は翌日には来なかった。私の居場所はおろか仕事すら、何も決まってない。外資系ベンチャーキャピタル上がりの社長はたびたび社員をどやしては、どやされた社員は翌日には消えていた。1ヶ月続いたらベテランと称されるような、虫の一生のような時間の流れ方だった。

いったん生き抜いてみようと思った。

楽器のメンテ、カリキュラムの開発、講師の求人採用、イベントの企画運営、できることはなんでもやった。なるたけ人を傷つけないように、なるたけスタンドプレーで。

経営ははちゃめちゃだったし、過労で倒れる人を初めて目の当たりにしたりしたが、俺は思いの外楽しかった。そして普通の仕事をしていたら出会えない多様なミュージシャンと知り合えた。

ヒューマンビートボックスの元日本チャンピオン、本場のブラックゴスペルをストイックに追求するゴスペルディレクターなど、ジャンルや楽器を問わず才能豊かな人々と出会い、一緒に仕事をした。

講師ではなく裏方の事務局として働いていたが、体験レッスンの手配ミスでお客は来たが講師がいない!という不測の事態においては、体験レッスン限定で出陣した。俺の褒めまくる体験レッスンは大好評で、俺の体験を受けた人の入会率は異常に高かった。

殺し文句は決まっていた。

「え?弾くの本当に今日初めてですか?前にやってたかと思いましたよー!」

褒められて嫌な気持ちになる人はいない。音大上がりで苦労してきた講師たちは、常にダメ出しの波状攻撃に晒されて育ってきたので、褒めるのが苦手だ。その点俺は何の抵抗もなく褒めちぎる。

「めっちゃいい音出ましたよいま!」

ファーストコンタクトで「これは自分に向いている」と暗示をかけてくれる人がいれば、せっかく興味が芽生えたものを無駄に断念せずに済む。嘘をついてるわけでもないし、無理もしてない。生まれてはじめて触った楽器で音が出れば、それは寿ぐべき産声だと思って一緒に祝った。

事務作業をしながらも周りに楽器と音が溢れてる職場は、たとえ漆黒であっても、俺には花園だった。死屍累々の漆黒の花園を、俺は無邪気に駆け回っていた。

そういや映像への出演なんて仕事もあった。

思えばほんとなんでもアリの仕事で、ベースを歌ってるのが私で、メインボーカルの長身の男はかつて演劇をやっていた時に(新卒で入社した楽器メーカーに勤めていた時期、小劇場演劇をやっていた)共演した役者で、俺が依頼した。

だが、如何せん家から遠かった。

往復で5時間近くかかる通勤時間と、毎朝始発に乗り終電で帰るようなタフな生活に精神も身体も悲鳴を上げ始めた。妻子にも迷惑と負担をかけ通しだった。

1年ほど生き抜いて自分の居場所や仕事が固まってきた頃に、俺は辞めた。結局俺だけはなぜか社長から一度もどやされなかった。

それでもくすぶっていた音楽熱は漆黒の花園において再燃し、その後も消える気配はなかった。

俺は眠っていた自宅の楽器を少しずつ弾き始めるようになっていた。

次の仕事は、豆腐の移動販売だった。

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