非専門=野良のススメ
私は現在、二胡という中国の伝統楽器を7人に教えている。
だが私の専門は二胡ではない。中国留学時代に一年半習っただけの「にわか」である。
私は現在、フィドル(ヴァイオリン)を人前で演奏してギャラをもらっている。
だが私の専門はヴァイオリンではない。3歳から習ってたものの練習嫌いで辞めて、35歳で一念発起して再開した「にわか」である。
私は現在、竹細工を26人に教えている。
だが私の専門は竹細工ではない。39歳から(現在は40歳)別府の訓練校で1年間習っただけの「にわか」である。
私は中国語の翻訳の仕事をしている。
だが私の専門は中国語ではない。大学で専攻し留学も経験し卒業後中国で仕事もしたが、10年以上仕事で使っていなかった。
では私の専門とは何か。
誠に残念なことに、私には専門と呼ぶべき分野やスキルがひとつもない。
いや違った、実はまるで残念ではない。
なぜなら私は何かの専門家になることを全力で避けてきたとすら思えるほど、非専門に価値を見出しているからである。
そもそも専門とはなんだろう。
あくまで私見だが、私の思う専門の条件とは以下のようなことだ。
・専門の教育機関で教育を受けたこと
・何か公的な認証や免許を保持していること
・専門と見做しうる経歴や実績を有すること
・専門とする分野が一つであること
・絶え間なく継続して専門の分野に従事していること
・専門分野の仕事を生業にしていること
・専門分野にふさわしい格好(外見)であること
これらの全てを満たしていない限り、胸を張って専門だと称することは難しい。
だが上記に挙げた諸々はあくまで専門の社会的な条件であって、専門家であり続けることの条件は実は一つしかない。それはつまり、
専門とする分野におけるシステム、秩序、ルール、枠組みを脅かさないこと
これである。
この根本条件を満たさない限り、たとえ社会的条件を満たしていたとしても、専門家であり続けることは至難の業である。
そういう意味で、専門家はペットと類比的である。
ペットであることの根本条件は何かを考えてみるといい。それはつまり、
飼い主である人間のシステム、秩序、ルール、枠組みを脅かさないこと
飼い主の手を噛み続けたり、飼い主の家に帰らなかったり、勝手によそで伴侶を見つけて子孫を残したり、ということをした時点で、ペットは野良化する。
ようやくたどり着いた。
私は今まで様々な分野において、飼い主の手を噛み続けたり、飼い主の家に帰らなかったり、勝手によそで伴侶を見つけて子孫を残したり、ということを繰り返し、そのたびに野良化してきた。
それは私が主体的にそうした生き方を選択してきた、という意味では全くない。
どちらかというと、気がついたらその分野のシステム、秩序、ルール、枠組みを私が脅かしてしまっていて、結果的にその分野に留まることができなくなった、という要因が大きいように思う。
野良=非専門であることに、私はずっと引け目を感じていた。
野良=非専門は社会的には「生半可」で「にわか」で「中途半端」な存在で、専門より劣ると信じさせられてきたからだ。
だが少しずつ私の考えは変化してきた。
もう一度、専門家であり続けることの根本条件を見直してみよう。
専門とする分野におけるシステム、秩序、ルール、枠組みを脅かさないこと
専門という言葉にはどこか、未知の世界を切り拓くような、開かれたイメージがあるが、実際はそこには極めて強固なくびきが嵌められていて、「あくまでシステム、秩序、ルール、枠組みを脅かさない限りにおいて」という注意書きがいつも付されている。
だから専門家は、新たに参入してきた門外漢に対しては、何よりまず既存のシステム、秩序、ルール、枠組みを脅かさないこと、を教え込む。いや、叩き込む。
具体例を挙げよう。
ヴァイオリンという楽器がある。
この楽器は数多ある楽器の中でも、きわめて強固な「専門性」を持つ。
具体的に言うと、ヴァイオリン教師と楽器店との「癒着」という「専門性」がある。
あえて「癒着」という鋭いワードを使ったのは、それは「癒着」という概念を説明するのにこれ以上ないほどの好例と思えるほどの「癒着」だからだ。
説明しよう。
例えば、100万円のヴァイオリンを先生が紹介して生徒に購入させたとする。この場合、楽器店から10万円~30万円程度のお金が「お礼金」「紹介料」として先生に支払われる習慣がある。
このように販売価格の10%~30%の金額が楽器店から教師に支払われる習慣は「リベート」と呼ばれている。
これだけならまだしも、ことはもう少し深刻だ。
先生は新しい生徒が来たら、すでにどんな素晴らしい楽器を持っていても、「リベート」目的で新しい楽器を買わせる。生徒がお金に見え始める。生徒は先生が変わるごとに楽器を新調しないといけない。
お分かりだろうか。あまりの腐敗っぷりに腐敗臭で鼻が曲がりそうだ。ヴァイオリンも朽ちて土に還りそうだ。
ヴァイオリンは楽器自体が確かに高い。だがプロになるわけでもなければ、3〜4万の楽器でも全然問題ないと私は思う。だが上述のような「専門性」によって、勢いヴァイオリンは限られた富裕層以外には手の届かない存在となり、めでたく「専門性」は保たれる。
専門家はその分野におけるシステム、秩序、ルール、枠組み、つまり「専門性」を死守することが最優先であり、専門的知識や技能を社会に還元することや多くの人々に伝えることは、勢い優先順位下位に回される。
では野良=非専門家である私はどうか。
そもそも守るべき「専門性」を持たないので、自身のスキルを共有することや還元することに対して、節操がない。
通常はヴァイオリンを弾かないような格好で、場所で、楽しく演奏できてしまう。
とはいえ不安はあった。
「非専門」に対してはやはり社会的評価が低く需要がないのではないか。やはりみな安心できる「専門」を求めるのではないか。
5月から二胡を教え始めようと決めた時、そんな懸念が消えなかった。
だがフタを開けてみるとそれは杞憂だった。
体験レッスンで明確に「非専門である旨」を説明してるのに、みながそれでも教えてほしいと言う。最近新たに習いに来てくれた人にいたっては、明確にこう言った。
「専門ではない先生に習いたくて来ました」
すでに中国人の先生に習っているが、その「専門性」の限界を感じて、あえて「非専門」の私に白羽の矢が当たった。
で私がどんなレッスンをするかというと、「んじゃ私ギターで伴奏に入りますね」とか「譜面無視して、歌いたいように弾いてください」とか、恐らく「専門家」が見たら昏倒するようなレッスンをお金をもらって提供している。本人もすごく嬉しそうだ。
専門と非専門=野良の優劣を論じているのではないし、どちらが正しいかという話もしていない。
自らの生き方、働き方を通して、閉じられた「専門性」と、その「専門性」への盲信に一石を投じられたら、と考えてる程度のことだ。
「野良」という生き方、働き方が広く認められたとき、世界はもっと豊かになると私は信じて疑わない。
「専門」へのこだわりを捨てて、もっと自由に生きるという選択肢があったっていいはずだ。
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