悔し涙を流れるままに
「悔し涙」という言葉を知ってはいたけど、それは「地団駄」とか「ふくれっ面」とかと同じくらいの、ある種漫画的な表現でしかないと思ってた。
だがツルトは、悔し涙を流していた。
兵庫県佐用町で開催した竹細工講座に参加したツルト(6歳)は、講座史上最年少にも関わらず講座の時間中(全6日間、合計36時間)一度として手を止めることなく、竹と竹割包丁と自身の身体と真摯に向き合い続け、大人顔負けの成長を遂げた。
竹細工は一筋縄ではいかない。困難にぶち当たるたびに、彼は悔し涙を流した。それでも手を止めることはなかった。
そうだった。
私もずっと悔しかったのだった。
私は大学入学後、自分なりに本気で中国語を学び、いつしか小説を原文ですらすら読むほどに上達した。そして3年半、満を持して留学へ。初日に訪れた北京のホテルで、ホテルマンの言葉が何一つ聞き取れない。
何かが決壊する音が聞こえた。
ホテルの部屋でパニック発作が出た。心臓が耳元に移動したかと思えるほどに大きな心音が身体中にこだまし、こめかみは今にも破裂せんばかりに激しく脈打った。
このまま死ぬのではないか。
死ななかった。なんとか生き延びて翌朝留学先へと向かい、体調不良でしばらく起き上がれなかったものの、辛うじて立ち上がり、中国語はいつのまにか普通に聞き取れるようになった。
思えばあの時、悔し涙を流せばよかった。
ツルトのように。
ホテルマンの目の前で、「我听不懂(聞き取れない)」と声を震わせながら、滂沱の悔し涙を流せばよかったのだ。
ところが、悔し涙を生ずる涙腺は長年使われなかったことで目詰まりを起こし、堰き止められで行き場をなくし感情は、血管の中で容赦なく暴れ回った。
それ以来、「悔しい」という感情は身体に脅威を与えるものとして、ヘラヘラと受け流す術を覚えた。そしていつのまにか「悔しい」とか感じない人、という自己認識が出来上がっていった。
でも私は、いつも悔しかったのだ。
手が震えてヴァイオリンが弾けないときも、
お芝居で思うように演技ができないときも、
30kgの米がうまく15段積めないときも、
移動販売でなかなか豆腐が売れないときも、
竹細工で輪弧編みで一人落ちこぼれたときも、
路上演奏で誰も見向きもしてくれないときも、
バレエで軟弱で硬い身体に直面したときも、
思えば、いつもいつも悔しかった。なのに悔しがることすらできなかった。「悔しい」という感情が確かにあったことに、ツルトの悔し涙に出会うまで気づけなかった。
「悔しい」という感情は不思議だ。
他責的でも自責的でもなく、ネガティブなようでいて、成長や上達の糧となるような、根源的な感情。私がいま当たり前のように歩けてるのも喋れてるのも、かつての「悔しい」という感情の賜物なのかもしれない。
ではその、誰も傷つけない「悔しい」という感情を素直に表出することが、こんなにも憚られるのはなぜなのか。竹細工を多くの人に教えてきて、最初は誰もが大きな壁にぶち当たるにも関わらず、いまだかつて悔し涙を流したのはツルトただひとりだけだ。
恐らく「悔しい」だけではないのだ。
この社会では、喜怒哀楽いかなる感情であっても、「表に出す」ということ自体が幼稚で未成熟であると解される強い傾向がある。良い知らせを聞いて跳び上がって喜ぶことも、不正義に対して敢然と怒ることも、悲しい知らせを聞いて号泣しながら悲しむことも、気分が良くなって歌い踊りながら楽しむことも、全て「みっともない」の一言でにべもなく否定される。
「怒り」や「悲しみ」ならまだしも、「喜び」や「楽しさ」までもが表出を憚られるような社会において、「悔しさ」を爆発させて悔し涙を流すハードルは絶望的に高い。
ツルトの悔し涙に感化されてもなお、私には悔し涙を流せる自信はない。
でもせめて、「悔しい」をなきものにしてしまわずに、「悔しい」という感情の生起を認めるために、最近は悔しいたびに呟くことにしている。
「悔しいー!」
「クソー!」
「なんでだー!」
「あ゛ー!」
「ちくしょー!」
いっそ言葉にならなくてもいいから、せめて「悔しさ」を口から逃す。悔し涙ほどではないにせよ、口に出すだけでも「みっともない」と白眼視される可能性は大いにあるけど、気にせず口に出し続ける。次第に周りも「そういう人だ」と慣れてくる。ゆくゆくは、悔し涙も流し放題になったりするかもしれない。
悔し涙を流れるままに。
成長や上達の糧となる「悔しい」という感情に蓋をしてしまわないために。
堰き止められた感情が血管をのたうち回る悲劇を繰り返さないために。
これから隣りでおっさんが、はらはらと悔し涙を流していても、どうか「またか」と流して欲しい。
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