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「夢見ガチ」を求めて 〜「ガチ」でなく「ゆるく」もない場を〜

何かと「ゆるく」と言いたがる人がいる。「ガチ」に疲れたか、「ガチ」に絶望したか、その理由はわからないけど、何かと「ゆるく」と言いたがる。

「ゆるく」取り組めることも確かにあるのかもしれない(あまりイメージできないけど)。

でもどう考えても、どう逆立ちしても「ゆるく」は取り組めないことも多い。

例えば、

「ゆる〜く狩猟をやりたいんです」

とか

「ゆるゆるとヒマラヤ登頂を目指したいんです」

とか

「ゆるく自給自足目指します」

とか

無理。どう考えたって無理。「ゆるく」では、どうしたってスタート地点にすら立てないコトがある。

ところがおやおや周りを見渡すと、「ゆるく」楽しんでる(ように見える)人たちが相当数いる。だから、きっと最初から「ゆるく」楽しむことだってできるに違いない。であればこそ、

「プロになりたいとかじゃなくて、マイペースにゆるく続けたいんです」

となる。

私が生業として教えている竹細工、楽器(二胡、ヴァイオリン)、中国語でも、こんな人がよく来る。

でも悲しいかな、最初から「ゆるく」で続いた人は一人もいない。一人もだ。

周りで「ゆるく」楽しんでる(ように見える)人がたとえいても、ほぼ間違いなく彼らは“最初から”「ゆるく」取り組んでいるなんてことはない。一定期間の「ガチ」を経た上で、結果的に現在は「ゆるく」見える取り組み方に変化しただけだ。

そもそも何かを始める前から「ゆるく」という構えそのものが、その何かに対する、そしてその何かに本気で取り組んでいる人に対する、そしてその何かが「できる」という技術に対する侮りではないのか。「ゆるく」取り組めるかどうかは、あくまで始めない限りわからないのだ。それを始める前から「ゆるく」などと言えるその心性の背後には何があるのか。

「ゆるく」というのは決して積極的な選択ではない。むしろ消極的、消去法的な選択である。つまり「ゆるく」はあくまで、「ガチ」に対するカウンターとして選択される。

「ガチ」にまつわる経験やイメージが、

・やりたくないことやらされる
・嫌いになる
・長続きしない
・辛い
・上手くならない
・がんばれない
・暴力的だ

あたりに固着してしまってる場合、極めて現実的な選択肢として、「ゆるく」はその逆を実現してくれると思い込むのである。つまり「ゆるくなら

・やりたくないことやらされない
(やりたいことだけやれる)
・嫌いにならない
(好きなままでいられる)
・長続きする
(ライフワークにできる)
・辛くない
(マイペースに続けられる)
・上手くなる
(継続は力なり)
・がんばれる
・暴力的でない

こんな夢のような楽園の住人になれる、と信じて疑わない。

だが現実はそのようにはなっていない。

「ゆるく」始めて、長く続いた人も上手くなった人もがんばった人も、一人もいない。嫌いになった人や暴力的になった人や辛くなった人は、わりといる。なぜなのか。

あくまで「ガチ」のカウンターとして「ゆるく」は志向されることはすでに確認した。だが「ゆるく」に付随するはずの成果や快楽が得られる様子がないのは一体どういうことか。

「ガチ」が歪んでいるのである。

「ガチ」にこびりついた経験やイメージによって、「ガチ」から逃避した先の避難所として「ゆるく」は選択されている。その「ガチ」にまつわる経験やイメージを再度見てみる。

・やりたくないことやらされる
・嫌いになる
・長続きしない
・辛い
・上手くならない
・がんばれない
・暴力的だ

これは何かを「ガチ」でやる場合、誰もが必ず経る経験であろうか。そして、この「ガチ」の地獄から逃げた先にある「ゆるく」の楽園など存在しうるだろうか。

残念ながら、私はそうは思わない。

「ガチ」につきまといがちな地獄性を、私は否定しない。何かを真面目に本気で学ぼうとしたり、何かに全身全霊をかけて取り組もうとすると、この国では得体の知れない理不尽な不自由を背負わされたり、元気のない人たちからの妬み嫉みに晒されたりする。それは「ガチ」が挫折するまで、決して止むことはない。しかもそこまでの犠牲を払ってリスクを冒して「ガチ」でやったところで身になる保証なんてない。

なるほど「ゆるく」に逃げ込みたくなる気持ちも分かる。

でもそれではいけない。かりそめの楽園でお互いの傷を舐め合っていても、執拗に「ガチ」を避け「ガチ」を忌み嫌い「ガチ」を妬んでいても、楽しくもならないし、上手くもならないし、続きもしない。

ここは「ガチ」をアップデートするしかない。

つまり先ほど紹介した「ガチ」のカウンターとしての「ゆるく」のメリット、つまり以下の事柄

・やりたくないことをやらされない
(やりたいことだけやれる)
・嫌いにならない
(好きなままでいられる)
・長続きする
(ライフワークにできる)
・辛くない
(マイペースに続けられる)
・上手くなる
(継続は力なり)
・がんばれる
・暴力的でない

ガチでいながらこれらが実現できる全く新たな【ガチ】が当たり前である場を作るしかない。

私の中国語や楽器(ヴァイオリン、二胡)や竹細工は、半ば奇跡的に、とはいえ偶然に現れた、上記のような【ガチ】が許される場のおかげで身についたものだ。教育の場だけでなく、家庭環境もすごく大きかった。

その【ガチ】を、通常のネガティブイメージがこびりついた「ガチ」と峻別するために、「夢見ガチ」と呼ぶ。これは多くの人にとって「夢にまで見たガチ」であるから。

「それのどこがガチなんだよ。ゆるいじゃないかよ。」

そんなお声もあろう。

だがここではっきりさせておきたいのは、「ガチ」にこびりついているイメージの大半は、本来「ガチ」の必須条件ではない、ということだ。

・やりたくないことやらされる
・嫌いになる
・長続きしない
・辛い
・上手くならない
・がんばれない
・暴力的だ

つまり上記のような「ガチ」にこびりついた経験則やイメージの全てを回避しつつ、それでもガチであることは、可能なのである。

では何をもって「夢見ガチ」であると強弁しうるのか。それは今のところ、以下の4点さえおさえれば、それは十分に「夢見ガチ」である。

①技術及び熟練者に対する敬意がある
「ガチ」に絶望した人ほど技術や熟練者に対して敬意が希薄である。崇拝や盲従は不要だが、技術そのもの、そしてその技術を習得するために費やした時間や労力に対して、心からの敬意がなければ「夢見ガチ」とは言えない。

②取り組む優先順位を上げられる
それぞれのライフステージによって、仕事や家庭の事情もあいまって、使える時間はそれぞれ違うので、「ガチ」が定めがちな「1日○時間」などという乱暴な基準は無意味でありむしろ害悪だ。「夢見ガチ」で大事なのは、その限られた時間内において、取り組むための優先順位を上げられるかどうか、そこだけである。

③誰からも頼まれなくても勝手にやる
「ガチ」は宿題や課題など、「やるべきこと」を設定しがちだが、それによって人は離れていきむしろ嫌いになり二度と近づかない。だから「夢見ガチ」は何も強制しない。あくまで勝手に、誰にも頼まれていなくても「やってしまう」、それが「夢見ガチ」である。

④できても浮かない、できなくても沈まない
できるできないで浮沈があるのが「ガチ」の大きな特徴だ。だがそれだと「できてもできなくても地獄」ということになりかねず、「平均的にできる人」以外残らない。だから「夢見ガチ」には、できても浮かない、できなくても沈まない、あっけらかんとした無邪気さと、それが許される場が必要だ。

とここまで考えてきてようやく気づいた。

私の「房総竹部」という竹を生かし生業を創るための取り組みは、まさに「ガチ」からは距離を取りつつ、「ゆるく」に堕することなく、あくまで「夢見ガチ」を実現するための場に他ならない。

念のため触れておくと、「ゆるく」取り組もうとする人ほど、①技術や熟練者に対する敬意がなく、②優先順位を全く上げることをせず、③勝手にやることは皆無で、④できれば浮き、できなければ沈む。しかも大抵、上達、成長しない怒りの矛先を外部に向け、クレーマー化する。やもすれば「ゆるく」は「ガチ」よりも暴力的である

房総竹部の「夢見ガチ」への取り組みをはじ始めて3年半、世の中いまだに「ガチ」か「ゆるく」かの二者択一に陥りがちで、「夢見ガチ」への理解はなかなか得られない。

それでも「竹フィルター」によって残った多くはない「夢見ガチ」な仲間たちを見るにつけ、この方向性は間違ってないことを実感する。

上手くなりたい。

楽しく続けたい。

「ガチ」ではたとえ上手くなっても楽しくないから続かない。「ゆるく」ではそもそも上手くなりようがない。

でも「夢見ガチ」なら、楽しみながら上手くなって、しかも続けられる。

「そんな夢みたいな話あるわけない」

だから最初から「夢見ガチ」だと言っている。

私には「ガチ」も「ゆるく」も悪夢にしか見えない。いっそ夢なら、「夢見ガチ」を目指したい。

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