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俺の音楽変歴 〜怒涛の留学編③

【前回までのあらすじ】
小中でピアノ、バイオリン、高校でギターを習うもどれも物にならなかった俺。諦めたシンガーソングライターの夢、成就しない恋、高校生活は終わりを告げた。大学でオケに入りバイオリンを再開、トランペットと三線にも手を出し、留学先の中国で二胡を始めた。

水餃子を食べながらの会話をきっかけに、留学先の中国でイベントを開催することになった俺。

「日本の音楽を中国人と日本人の両方が演奏する」というコンサートにしようということで話がまとまった。

折しも小泉首相の靖国参拝と歴史教科書問題で日中関係が悪化していた真っ只中で、都市部では日系の百貨店のガラスが割られるなどの被害が出ていた。

俺の住んでた済南という町は日系企業の進出は皆無で日本人留学生も多くなかったので、反日的な空気を感じることはなかった。気性は荒いが、みな人懐っこくてやさしかった。

崔勇と打ち合わせを重ね、着々と準備は進んだ。日時が決まり、会場は大学の講堂に決まった。曲目と楽器が決まり、演奏者のアレンジは崔勇に任せた。

俺は当日のプログラムの作成、日本語学科の学生による合唱団の結成、彼らへの日本語と歌唱の指導を担当。本番は合唱の指揮、司会進行をやり、さらに2曲歌う予定だった。

何もわからないながら必死に走り回った。

本番の3日前くらいになって、崔勇から連絡が来た。

「やはり日本の音楽だけでは厳しい。日中両国の音楽を紹介するイベントにする。」

本来の主旨がぼやけてしまうのではないかと感じたが、仕方ないと感じた。中国ではオーケストラのコンサートであっても必ず一曲は中国の曲が入っていた。たとえ渡来のものであっても、そこに必ず中国的なものをしっかりねじ込んでいく。多少強引さも感じるが、むしろ日本人の方が身軽で節操がないだけかもしれないと思った。

「中日音楽鑑賞会」とイベントタイトルが変更され、プログラムも刷り直した。

そして本番2日前に合唱団のリハに崔勇を呼んで見てもらった。曲は滝廉太郎の「花」だった。

「こんなひどい出来では出演させられない」

確かに歌はひどかった。

俺は早々にパート別のハモりを諦め男女全員で同じメロディーを歌ってもらったがそれでも勉強一筋で狭き門をくぐり抜けてきたエリート達には荷が重かった。

それでもなんとか嘆願して出演だけは了承してもらった。俺の指揮もさんざんダメ出しされた。お前は指揮が何もわかってない。

さらに当日の司会進行についても、原稿を見せその場でリハをしてみたところ、俺では無理だということになった。

「お前、何でもできると思ってんのか」

目の前が美しい白に染まった。

司会進行は代理を立てることになった。万能感から無力感への急転直下で、俺の脳内のヒューズが飛びかけていた。

本番当日、大学入口の掲示板には手書きの張り紙でイベント告知が打たれていた。白い紙に赤い筆文字。政治活動みたいだなあとどこか他人事だった。

いざ本番。キャパ300人の講堂からは人が溢れていた。会場は立ち見客でごったがえし、熱気と臭気に包まれていた。

「赤とんぼ」や「さくらさくら」といった日本の曲が中国の楽器で演奏された。まるで元より中国の曲であったかのようにまるで違和感がなかった。俺は「島唄」と「少年時代」を歌い満場の喝采を浴びた。中国の有名な伝統音楽も披露され、大歓声の中イベントは幕を閉じた。

日本語科の尹飛(イン・フェイ)が新聞社の知り合いに頼んで、翌日の斉魯晩報にはテキストのみの小さな記事が載った。尹飛は嬉しそうだった。俺はどうでもよかった。

留学を終え中国を去る直前、高老師が餞別に紫檀の二胡をくれた。紫檀製は最高級品なので相当の値打ち物に違いない。ありがたく受け取った。

ふと二胡作り職人になれないかと思い、高老師に相談したところ韓国賓(ハン・グオビン)という職人を紹介してくれたので北京まで会いに行った。気さくでいい人だったが弟子は取ってないとのことで諦めた。

俺は留学を終え帰国した。二胡はワシントン条約で禁止されてる蛇皮を使ってるので手続きが面倒だったが無事二胡は持ち帰れた。

卒業を控え仕事を探した。

「中国語」「楽器」という検索ワードに引っかかった企業ニ社に応募し、そのうちの一社に採用され入社が決まった。(落ちた方の経緯はこちら)

エレキギターとドラムを扱うメーカーだった。

流転の社会人編につづく】


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