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ソックスレス宣言

さようなら靴下。

今冬、私は靴下に別れを告げた。何かが閾値に達したのか溢れ出たのかわからない。とにかく金輪際、靴下を履かないことにした。

靴下。

その名前からしてそもそも「靴の下に履くもの」という靴への従属感がありありで、それ用のまともな固有名詞すら与えられていない、少し哀れな奴。

Socks。

一方で海外を見渡せば、プレゼント入れたりベースボールのチーム名になってたり、なんだか重宝がられてる感もあったりする。

そんな両価的なあいつ(ら)とお別れすることにした理由を以下につらつら書く。でも勘違いしないでほしい。あくまで先に別れがあった。その理由は別れの後にやってきた、いわば遡及的な感慨でしかない。

洗濯が面倒な靴下

まず靴下は干すのが面倒である。なぜかといえば脱いだ状態で裏返るか、くしゃっと丸まるかどちらかで、そのままで洗われた靴下は干す時に表に返したり、伸ばしたり、という手間がかかる。

そして軽いから干してて飛ぶ、落ちる。ベランダの隅で落ちた靴下がびちゃびちゃに黒ずんでるのを見ても、なぜか拾う気になれない。

さようなら靴下。

片割れだらけの靴下

洗濯の全工程において、靴下は片割れを失うリスクにさらされている。洗濯機に入れる際、奥に落ちたり、干しに行く際、洗濯カゴからこぼれ落ちたり、干してる最中、ピンチハンガーからはずれて落ちたり、取り込んだ後、棚の下に潜り込んだり。

気がつくと片割れだらけの靴下たち。片割れの靴下はもはやsocksと複数形にすらできない。いっそ左右違う靴下を履くのが流行ればとも思うし、そんなおしゃれもあるようだけど、どうにも寝惚けて履き間違えた感が拭えない。

さようなら靴下。

穴のあく靴下

靴下である以上、早晩穴があく。どこにあくかも大体決まっている。そして、靴下の穴はいつも誰かに発見される形でその存在を現す。

「(笑)穴あいてるよ」

靴下さえなければ、こんな生き恥さらさずに済んだに違いない。ただ靴下を履いて歩いていただけで、なぜこんな責め苦に喘がなければいけないのか。毎朝靴下履く前に裏側に穴がないかのチェックを怠らない、というたしなみを求められているのか。いやそれでも、朝なかった穴が昼にはあいてることだって大いにありうる。

さようなら靴下。

勝手に脱げる靴下

ゴムが伸びたせいで、歩いていて勝手に降りてくる靴下は、靴下として最低限の役割すら果たしていない以上、もはや靴下とは呼べない。靴下の形をした何かでしかない。

かつてルーズソックスという、自重を支えられない、もはや靴下とは呼べない代物が流行ったことがあった。それはソックタッチと呼ばれるノリで固定することで、なんとかずり落ちるのを回避していた。

さようなら靴下。

足を締め付ける靴下

纏足という文化がかつての中国にはあった。幼少期から女性の足を縛りつけて成長を阻害し、足を小さいままの「美しい状態」に保つわけである。「豆腐屋小町」ことヤンおばさんが「コンパスのよう」と描写されるのもそのせいだ。

靴下のせいで、私の足もいつも締め付けられている。纏足ほどではないにせよ、足の感覚はいつも靴下によって阻害されている。試しに裸足で歩いてみるといい。身体を支える地面との接着面の質感を、足裏は本来感じ取れるのだ。

さようなら靴下。

蒸れる靴下

靴下の中の足は蒸れやすい。靴下を履かないと靴が臭くなると言う人がいるが、本当はきっと靴下の中で蒸れた結果放った悪臭は靴下の中に閉じ込められているだけで、放つ悪臭の量は靴下内の方が多いのではないか。

末端が冷えるのを恐れるあまり、末端が蒸れてしまうのもまた具合が悪いに違いない。たしか犬は足裏にしか汗腺がなかった。人間の足裏の汗腺だって温度を下げるために必死に発汗してるのに、むしろ蒸れて温度が上がる。ごめんなさい足裏の汗腺たち。

さようなら靴下。

基本見えない靴下

穴があいてる場合、奇抜なデザインである場合をのぞいて、基本人は他人の靴下に注目することはない。だが裸足でいると心配される。靴下の普及に伴い、靴下は下着の部類と同一視され、生足は一種の「陰部」のように見做されている。マスク下の鼻口も最近は同様だ。

とはいえ靴下は基本見えないのである。

だから少なくとも靴を履いているときは、そこに注目されることはまずない。ノーパンが普段気づかれないのと同様に、ソックスレスは通常気づかれることがないのである。それはつまり、ソックスレスが誰にも迷惑をかけないことを意味する。

さようなら靴下。

古着がない靴下

そもそもこれだけ世の中に衣類や繊維が溢れているのに、新品を買うことに私はいつも抵抗を感じている。その抵抗を軽減するために、基本衣服は古着以外買わない。オーガニックコットンだろうがフェアトレードだろうが、新品への抵抗感はあまり変わらない。

靴下は、古着がない。

いわば消耗品と見做されているから、だけではないだろう。やはり「陰部」である生足に触れた靴下は、たとえきっちり洗濯してあったとしても共用したくない。古着のTシャツには抵抗ないくせに古着の靴下には抵抗がある、というのは考えてみれば不思議なことだ。足は臭う、という言い分かもしれないが、脇だって臭う。その理不尽さと新品を買う抵抗に抗いたい。

さようなら靴下。

履いても寒い靴下

靴下履かないと特に冬は寒い、と言う人もいるかもしれないが、ここは声を大にして言いたい。

冬は、靴下を履いていても足は氷のように冷える。

靴下が防寒効果がゼロだと言いたいわけではない。だが冬の寒さは靴下では防ぎきれてない以上、冬の寒さを靴下を履く理由として挙げたところで、それは説得的ではない。

さようなら靴下。

なくてもよかった靴下

とはいえ冬は足が冷える。足が冷えるのは嫌だ。

そこで私は考えた。

外履きと中履き

屋外では中がモコモコの防寒ブーツ(しかも防水)を履き、屋内ではこれまた中がモコモコの防寒ルームシューズを、共に素足で履くのである。

いまどちらも中の匂いを嗅いでみたが、特に悪臭ていない。匂いの問題はとりあえずクリア。

先日の兵庫岡山出張では素足に防寒ブーツで雪の舞う氷点下の中、屋外で作業をしていたが、特に足が冷えることはなかったので、防寒に関しても問題なし。

むしろどちらも暖かくなりすぎることがあるが、その場合は着脱が楽なため、一時的に脱いで裸足になって足を冷ますことで回避可能。

さようなら靴下

春の訪れと共に先述の防寒二点セットは洗濯をして来年に備え、裸足につっかけ或いはサンダル、といういつものスタイルに戻る。もちろん屋内では素足で歩き回る。

ちなみに私が靴下に疑念を抱き始めたのには理由がある。

うちの子が通う木更津社会館保育園の子どもたちは、一年を通して上履きはもちろん、靴下も履かない。理由は明快で「皮膚感覚を重視」ということだ。夏になったらパンツ一枚で遊ぶ子が多いところをみても、その方針は一貫している。(詳しくはコチラを参照のこと)

皮膚感覚が大切なのはもちろん子どもだけではあるまい。私が生業にしている竹細工も弦楽器も、手袋越しでは仕事にならない。とはいえ特に都会では、生活や仕事で皮膚感覚の大切さを痛感しながら生きている人は少ないかもしれないけれど、皮膚感覚の鈍麻、これが様々な問題の大元にあると私は見ている。

一昨年始めたバレエの影響も大きい。

身体と地面との接触点である足裏への意識を高めざるを得なくなったのだ。今まで意識したこともなかった足指の使い方にも目覚め始めた。そうなった以上、靴下はむしろ邪魔になる。

さようなら靴下。

とかいいつつさすがに正装の時は履くかもしれないけど、冠婚葬祭以外でスーツとか着ない仕事の仕方してるので、日常生活では靴下の出る幕はほぼなくなる。

さよならしてみたらステルスストレスであったことが発覚した、靴下というありふれた存在。きっと靴下以外にもお別れした方がいいモノやコトがたくさんあるに違いない。

べき論的なトラワレから自由になって、あくまで自身の身体感覚をベースに、軽やかになっていきたい。

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