ちゃん付けとハグ
【ちゃん付けとハグ】
本当は嫌だった。
なんとなく「そういうもんかな」とやり過ごしていたけど、振り返ってみると本当は嫌だった。そういうことがよくある。
「初対面なのに、“ちゃん付け”と“ハグ”が当たり前」みたいな場所があった。
まあ基本はその場のルールやしきたりに従うのが大人としての最低限の振る舞いかなと思い、特にはその場では反応しなかった。
だけど、振り返ってみると、本当は、本当に嫌だった。
何が嫌だったのか。考える。
本来、「ちゃん付け」や「ハグ」は、関係が深まっていった先に自然発生的に生ずる「親密さの証し」のようなものだ。だから私は、親密な関係が築けているのであれば、「ちゃん付け」も「ハグ」も気にならないし、それ自体が悪いとは全く思わない。
だがあくまで、「親密になったから、ちゃん付けやハグをする」という順番であって、「ちゃん付けとハグをしたから、親密になる」というのはとんでもない倒錯だ。当たり前だ。
にも関わらず、「初対面なのに、ちゃん付けやハグが当たり前」みたいな場所では、いきなり「ちゃん付け」や「ハグ」を“されて”、関係の醸成なんてすっ飛ばして、初対面特有の覚束なさとか辿々しさとか新鮮さとか全部無きものにして、形ばかりの「親密さの証し」をオラオラと振りかざして、奇怪なほどに馴れ馴れしくフランクに話しかけられる。
それが、本当に嫌だった。
振り返ってみても、大人になってから、初対面の私を「けんちゃん」などと「ちゃん付け」で呼んだ人が何人かいたが、誰一人として関係が深まったケースはない。むしろ無礼で不誠実な輩ばかりで、関係を深めたいとも全く思えない。
私は、親密な関係が築けているのであれば、「ちゃん付け」も「ハグ」も気にならないし、それ自体が悪いとは全く思わない。と先ほど書いた。
だが私は毎週会ってる仲間をちゃん付けでは基本呼ばないし、ハグもしない。日ごろから意思の疎通をしながら、共に手を動かし、仕事仲間として働いていたら、別段「親密さの証し」は特に必要ない。むしろちゃん付けとハグは、関係が築けていないからこそ必要とされる、かりそめの「親密さの証し」であることの方が圧倒的に多い。そこからは、強烈な「内輪臭」が漂う。排他性と閉鎖性がないまぜになった、関係を疎かにした仲良しごっこ的空間で、私は恐ろしいほどの疎外感を感じる。
親密な仲間が集う空間であっても、開放的でありたい。外部に対して開かれていたい。間違っても仲間になりうる人が疎外感を感じるような事態は回避したい。
だから私は基本、どんなに親密な人に対しても「ちゃん付け」も「ハグ」もしない。自身のやりたいことを鑑みたときに、デメリットが大きすぎるからだ。
また、タザキが瑣末なことに目くじらを立てている。SNSでわざわざネガティブなことなんて投稿しなければいいのに。美味しいご飯とか綺麗な空とか可愛い子どもとか、誰も傷つかないことだけ発信してればいいのに。
そう思う人がいることは知っている。
でも私はやめない。
私は孤独に耐えられない。一人では生きられない。共にこの乱世を生き抜く仲間が欲しい。だから丹念に関係の糸を紡ぎ、時間をかけて関係を醸成する。それ以外に方法がない。
他でもないそのためにこそ、私はこうして発信をしている。仲間となりうる人が共鳴してくれるように。仲間となりえない人が嫌悪感を抱いて離れてくれるように。
なのでもしこの文章を読んで嫌悪感を抱いたなら、どうか静かに離れて欲しい。そのために私はこうして書いているのだから。
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