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俺の音楽変歴 〜無垢たる幼少、少年編〜

バイオリンやりたい

3歳の俺は母にそう言ったらしい。それをきっかけにチヒロ先生のバイオリンレッスンは始まった。

チヒロ先生は、芸大の学生で清楚な美人だった。顎と首の間にバイオリニスト特有の赤紫の痣があった。指がすらっと長くて長身で、小さかった俺にはどう見てもオトナにしか見えなかった。

レッスンは同い年のナツコちゃんと一緒だった。ナツコちゃんの住むマンションとうちが交互に会場になった。ナツコちゃんはお母さんと親子でほぼ同じ顔をしていて、ハンバーグよりイカの塩辛が好きなアトピーの女の子だった。

チヒロ先生はいわゆる天才タイプで教えるのが下手だった。でも演奏はうまかった。楽器は随所に機能や音色には関係のない装飾がほどこされてて高そうだった。怒ることもなかったし楽しそうでもなかった。

自宅での俺の練習に付き合うためか母親もバイオリンを始めたがしばらくして辞めた。俺も家で練習することは皆無で週一回のレッスンの時以外ケースを開かないこともザラだった。

当たり前だが楽器は一向に上手くならなかった。楽器の構え方が悪かったせいで弦を押さえる方の左手に変なクセが付いたが、チヒロ先生は特に叱るでも矯正するでもなく、上手くならないまま変な持ち方のままレッスンは進んだ。

小学2年のときに同級生のホソカワくんが通ってたピアノ教室に通い始めた。うちから自転車で10分ほどの距離で隣の家の二階のバルコニーではいつもパピヨンが乾いた高音で吠えた。

ピアノのタカハシ先生はおばあちゃんだった。右手首の左側面にBB弾とビー玉の中間くらいの桜色の水疱があって、鍵盤を叩いてるときもそれが何かの拍子に潰れたり取れたりしないか不安で、音はなかなか耳に入ってこなかった。

ケンちゃんは耳がいいねぇ…

タカハシ先生は浦沢直樹が上手に描きそうな笑顔で俺をいつも褒めた。当時はそれを「聴力がいい」すなわち「小さな音が聴こえる」という意味だとばかり思っていた。それが音楽的な意味だとわかったのは、それから30年後に出会ったジャズピアニストのタグチさんから全く同じ言葉をかけられたときだった。

タカハシ先生はお決まりのバイエル的な基礎練習をやらせることはせず、俺が弾きたい曲を弾かせてくれた。指を寝かせたまま鍵盤を叩くクセがついたが、タカハシ先生も特に矯正も叱りもしなかった。

高学年になり発表会でショパンの革命のエチュードを弾くはずが、本番の舞台上で突如手が激しく震え出し全くピアノが弾けない状態になり俺はフリーズした。再現映像のBGMに革命のエチュードが流れたらぴったり来る悲愴的な状況だったが、いつまで経っても革命のエチュードは流れないまま俺はすごすごと舞台を下りた。

物心は、激しい手の震えとともにやってきた。

ピアノを辞めた。ほどなくしてタカハシ先生も高齢で亡くなった。

レッスンのたびにタカハシ先生がくれるミルク味の飴は、シルクのようなやわらかい光沢のある白い個包装で、花びらの写真があしらってあった。ガラス戸棚の中で直立しっぱなしの西洋人形は、いつもグランドピアノの中を覗き込んでいた。

バイオリンは中学に入ってからは三鷹駅の近くのコボリ先生に習いに行った。コボリ先生はおじいちゃんで耳が遠かった。時に会話が難しいほど声はなかなか届かないのに、バイオリンの音の微妙な違いはしっかり聞き分けた。自転車でレッスンに行くたびに通る薄汚い書店の前にある本の自販機ではエロ本が売っていた。暗闇の自販機の前で何度か自転車を止めたが、背中に背負った祖父譲りのバイオリンのおかげか辛うじて誘惑に打ち克つことができた。

しばらくしてバイオリンも辞めた。

中学では合唱の指揮やらピアノ伴奏やらやらされた記憶はあるが、家ではあまり楽器を弾かなかった。

母が好きだったチャゲアスをカセットテープやCDで聴いた。クラスの女子から借りたB'zのZEROのカッコよさに目眩がした。成長痛で膝が痛み、顔はにきびで覆われ、人が人を産むメカニズムを知った。

俺の部屋にはテレビがなく、親のお下がりのカセットコンポでAMラジオばかりを聴いた。喋り方やワーディングが伊集院光に似てくるほど毎日聴いた。ランキング上位の曲はすべて空で歌えた。ロジャースで朝から並んで父に買ってもらったカセットウォークマンで、自作のベストヒット集をテープが擦り切れるほど聴いた。銭湯の向かいにできたLDとCDで価格が違うカラオケルームにヌマノと通ってはチャゲアスをハモった。

シンガーソングライターになろう

物心が今度は、イノセントな夢を連れてきた。


悶々たる青春編につづく】

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