見出し画像

占いを「二人称の物語」として語るか、「三人称の物語」にするか?

●昨日の記事で書いたスプレッドおみくじの占いについて。この占いではリーディングを物語形式にし、架空の主人公を設定して文章化する、と書いた。

これは自分にとって初めての試みで、やってみていくつか発見があった。

その前にまず、この試み以前はどのようにしていたかについて。

占いを「二人称の物語」として書く

これまで自分は、占い結果を書くとき常に「あなたは〜」とか「◯◯さん(依頼者の名前)は〜」のように、依頼者ご本人に向けた文章にしてきた。

これを自分は「二人称の物語を書く」つもりでやっていた。二人称で書くとは、「あなた」が主語になる文章を作るということ(一人称なら「私は」、三人称なら「彼は、彼女は、第三者の◯◯さんは」という文章になる)。

占いを語るとは、必ず物語を語ることだ(そう見えない場合があるとしても)。

「あなたの」という二人称の文章は、占い結果を依頼者自身の物語にする。ダイレクトにあなたの物語をあなたに向けて立ち上げる。二人称の文章にするのは、そういう意図があった。

これは数年前にウラナイ8さんにインタビューしていただいたとき話したかもしれない。自分は以前、舞台芸術に携わっていた。観客が「これは私の物語だ」と思えるかどうかで、その作品がその人の人生にどれだけ意味を与えられたが決まる。ただし、舞台のお客さんは大勢いるので、ダイレクトにその作品を「私の物語だ」と感じられるかどうかは人によって変わってしまう。

もちろん舞台上で語られるのはお客さん本人の物語ではない。元々はその人の物語ではないものを、作り手は「私の物語だ」と感じてもらえるように作ることになる。

しかし、二人称の物語として占いをするなら、お客さん一人のために直接物語を伝えられる。そもそも「あなたの問題」を占っているのだから、占い結果は「あなたの物語」以外になりようがない。だから占いから立ち上がる物語は、その人にとって非常にダイレクトな意味を持つものになるのだ、と。

占いを「三人称の物語」として書く

ところが今回の新しい占いでは、二人称「あなた」にしないで、架空の人物を考案し、主人公として立てた。これは「三人称の物語」になる。これで何が変わったか?

まず、二人称の占いを物語るときは、どうしても相手に対して忖度をしていたのだな、とわかった。そんなつもりはなくても、「あなたは」と書くときには相手への配慮があり、それによって語ろうと思った内容と、実際の表現の間に微妙なズレが生じる。

でも三人称で物語るとき、そういう配慮はほとんど生まれないことに気づいた。相手は架空の人物だし、その人物に気を使う必要はない。だからカードから物語を立ち上げるとき、忖度で表現が左右されない。

これは、書く側にとってかなり自由だと感じた。

普段の会話だって、相手のことを話すときはその人に気を使ってしゃべるんだから当たり前だ。でも実際にやってみなかったらこれは気づけなかったかもしれない。

占い結果を受け取ったモニターさんの反応からは、「これは直接的に私について語られたものではないが、私と重なる部分もある」と受け取ってもらえた様子が感じられる。架空の登場人物に対する共感や、またズレがあったとしてもそこから自分の考えをより精査して進められた様子もあった。

さらに「自分自身の問題だけでなく、社会的にもこういうことあるよな、と考える中で、より客観的に自分の物語にも近づけた」というご意見もあった。物語を「私の」から「社会の」にスケールアップさせることで、もう一度そこから「私」を見つめ直す、という視点も生まれたのだ。

二人称の物語は「あなた」の範疇を超えることができないが、三人称の場合はそれを超えられる、解釈の幅を持つ可能性がある。

それぞれどんなケースに適しているか

どちらが良くてどちらが悪い、ではなく、ケース・バイ・ケースの使い分けが考えられる。

二人称の場合は、ダイレクトに依頼者の問題に接続できるため、回りくどさが減る。具体的・現実的に解決しなければならない悩みがある場合はこちらの方が向きそう。

また、依頼者への配慮が自然と生まれるので、エンパワーメント目的の占いもこちらが良いように思う。三人称の物語は受け取りの幅が広くなるため、依頼者が物事を悪い方向へ考えやすい状態のときは、こちらが思ってもみないネガティブ要素を引き出してしまう可能性もある。二人称ならそこにも配慮を効かせることができる。

三人称の場合、まず書く側が自由。無意識の忖度がないからよりスムーズに書ける。二人称の占いで筆が止まることもあったが、それはおそらく相手への気遣いが理由で、配慮した表現を探していたからだったのだと思う。

また、占いを受け取る側も、まず「これは私の物語ではない」というところから入るから、気楽さがあるかもしれない。また共感や反感が生まれ、心の動きや想像力が活性化できる。

また、さっき書いた「個人的↔社会的」のスケール移動も許す自由さがある。解釈の幅が広くなり、やはり想像力の活性化が期待できる。