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小さな死生学講座第1回

はじめに

新しい講座を開始したいと思います。内容のベースには、東洋英和女学院大学生涯学習センターで2019年度前期に行った「小さな死生学入門」という講座の講義録があります。

その講座では、拙著『小さな死生学入門−小さな死・性・ユマニチュード−』(東信堂、2018年)を教科書にしました。分かりにくいところはそれを参考にしていただければと思いますが、ここでは、できる限り簡明な文章で、またそこに書けなかったことや脇道、寄り道などのお話、その後の知見なども述べたいと思います。

毎回、テーマを絞って述べていきます。第1回としては、小生が「小さな死」ということを論じるようになった経緯についてお話しさせていただきたいと思います。題して<なぜ「小さな死」を考えるようになったのか>として、第1回目の講座を始めさせていただきます。

第1回<なぜ「小さな死」を考えるようになったのか>


1) 「小さな死」との出会い


まずは、「小さな死」ということを考え始めたきっかけについてお話しさせていただきます。


カトリックのシスターであった渡辺和子さんは、ベストセラーとなった著書『置かれた場所で咲きなさい』で知られています。また、昭和11年(1936年)に起こった二・二六事件で父親であった陸軍の教育総監であった渡辺錠太郎が銃撃で殺害されたのを目撃したという壮絶な体験をしたことでも有名です。ことあるごとにその体験を聞かれている姿をよく見ていました。いつまでもそのことを聞かれ、ご本人はさぞつらいことではないかと思っていました。また、小生はキリスト教の信者ではありませんが、カトリックの大学である上智大学の大学院で学んだこともあり、神父さんやシスターには親しみを持っていました。さらに、渡辺和子さんが学長でもあった岡山のノートルダム清心女子大学の近くにある川崎医療福祉大学にも勤務していたことがあり、渡辺和子さんは気になる存在でした。そんなこともあり、『置かれた場所で咲きなさい』を手に取りました。そこで出会ったのが「小さな死」という言葉でした。

2)「小さな死」から「私の死」を考える


その本の中で、渡辺和子さんは「小さな死」を、自分の本当の死である「大きな死」のリハーサルであると述べています。本を読んだ時には、小生は東洋英和女学院大学にすでに在職しており、「死生学」も担当していました。小生はそれまで「生命倫理学」の教育には携わっていましたが、「死生学」という科目を担当するのは初めてで、生命倫理学とは別に、死生学で「死」をどのように論じていったらよいかと悩んでいました。この辺の経緯は拙著『生命の問い–生命倫理学と死生学の間で−』(東信堂、2017年)に記しました。

そのような中で、「小さな死」という言葉は印象的でした。ジャンケレヴィッチというフランスの哲学者が書いた『死』(仲澤紀雄訳、みすず書房、1978年)という本には、「私の死」は、「私」が「経験」できない「第一人称の死」であるとしました。また、ヘレニズム期のギリシャの哲学者であるエピクロスも「私の死」は怖くないと言うのです。つまり、自分では見たり触ったりという経験ができないので、痛くも痒くもない、したがって怖くないというのです。われわれが語るのは専ら「他人の死」のことで、「私の死」は語りようがないというようことです。

このように考えると、渡辺和子さんの「小さな死」は、「大きな死」のリハーサルから始まり、「自分のわがままをがまん」して「ポケットにしまう」ことというように述べているのはある意味新鮮でした。そして、そのような視点は、学生が日常生活の中で「死」を考えるにはよいヒントになるのではないかと思いました。さらに、「老年学」という科目を前任者から引き継いだ小生も60歳に向かいつつあった時期であり、自分の死というものも現実的に意識するようになりました。その意味でも。よいきっかけを得たとして考え始めたということです。


3)「小さな死」は「エクスタシー」!


そんな時に、近所の英会話学校に年甲斐もなく通っていましたが、ある時、作文の宿題が出て、いい機会と思い「小さな死」のことを書きました。「小さな死」は“Small Death“として書いたのですが、そこの先生から思わぬコメントをいただきました。恥ずかしながら小生は知らなかったのですが、英語で“Small Death“などというと、そのような言葉は性的な意味で使われるということでした。


そこで、Yahooで「小さな死」を改めて調べましたら、いろいろな意味で使われていることが分かりました。一番多いのは、大事な人、大事なものを失った時に感じる「喪失感」を「小さな死」とするものでした。「自分の死」を喪失感で考えると、確かに、家族や友人などを失うことは大きな脱力感に襲われ、自分をも見失うような気持ちになり、自分の意識や感情、身体も失うような「自分の死」と考えるのはイメージしやすいかもしれないと思いました。

次に、よく出てくるのが、フランスの思想家であったジョルジュ・バタイユが使っていた「小さな死」です。彼は、「小さな死」を「性の快楽の絶頂」、すなわち「エクスタシー」を指すものとして使用して、それを「死」そのものの考察にもつなげています。バタイユは異端の思想家とも言われ、1960年代後半からの大学紛争期には、ずいぶんもて囃されていたようです。1970年に大学に入った小生は理系でもあり、特に興味もなく読んだことはありませんでした。

バタイユの「小さな死」、フランス語では“la petite mort”(ラ・プティ・モール)ですが、それを知って、小生の「小さな死」への思いは俄然刺激されました。老年学では「高齢者の性」というテーマも扱っていたので、死に向かう高齢者の性を考えるには、「小さな死」が重要な概念にも思えました。後に、拙論「死に向かう高齢者における生と性」という論文を書き、拙著『小さな死生学入門』にも掲載しました。小生としては、渡辺和子→「小さな死」→ジョルジュ・バタイユという連環はとても気に入リ、それは「小さな死」の意味としての「個別的人間存在への否定」(このことは改めてお話しさせていただきますが)ということでつながっていると考えたのです。そのことを書いた、上記の拙著を高名な哲学者の先生に謹呈しました。すると、先生はお手紙をくださり、「渡辺和子さんとバタイユを並べて論じて、どこからかクレームが来ないか」と心配してくださいました。未だに、そのようなクレームは小生に寄せられていませんが、いつ来るかとビクビクしてもいます。しかし、そのような反応を持った方がいらしたら、是非ご意見をじっくり伺いたいと思っています。


更に、インターネットでは、「小さな死」という言葉は、「子どもの死」を指す言葉としても使われていました。「大人の死」に対する「子どもの死」ということです。「子どもの死」をイメージしてみると、小さな肩で横たわる姿は、本当に痛々しい愛しい「小さな死」を思わせます。代表的例としては、リルケの小説に「マルテの手記」というものがあります。そこで「子どもの死」を意味して使われています。


その他にインターネットでよく出てくるのは、バレエの演目にある「小さな死」でYouTubeでもみることができます。性行為を連想させるダンスが続く群舞です。また、映画の題名としても出てきます。フランソワ・オゾン監督の「小さな死」が有名ですが、その他にコメディタッチの映画もあります。


あとは、キリスト教関係の教会のホームページで渡辺和子さんの「小さな死」の議論がよく紹介されています。

こうして見てくると、「小さな死」は渡辺和子さんの造語ではなさそうですが、いろいろと「小さな死」という言葉が使われていることが分かり、議論を発展させることができるように思いました。


以上が、小生が「小さな死」を論ずるようになったきっかけと経緯です。2016年に東洋英和女学院大学死生学研究所が編集している『死生学年報』(リトン、2016年)に「「小さな死」によせて」という論考を掲載していただいて以降、これまでにいくつか論文などを書いています。


本講座の第1回としては以上です。個人的な話が大半で恐縮でしたが、次回は渡辺和子さんが論じている「小さな死」について述べさせていただきたいと思います。その後、バタイユの「小さな死」、そして、「小さな死」と「大きな死」との関係や、「高齢者の性」における「小さな死」の意味などについてお話ししていきたいと思います。

*まとめ

・カトリックのシスターであった渡辺和子さんはベストセラーとなった『置かれた場所で咲きなさい』などで「小さな死」について論じ、それを「自分の死」のリハーサルなどと論じた。

・「小さな死」は、渡辺和子さんが使う意味とは別にいろいろと論じられており、「喪失感」、「性の快楽の絶頂期」、「子どもの死」などのさまざまな意味で使われ、人間のありようを考えるには、良い示唆を与えるものである。

・本講座では、「小さな死」ということを手がかりに、「自分の死」や「高齢者の生き方」、「性」の問題などのさまざまなテーマについて考えていく。









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