見出し画像

小さな死生学講座第9回

 「小さな死」から「大きな死」へ
  −その連続性と非連続性−

(本稿は、拙稿「小さな死生学序説 −「小さな死」から「大きな死」へ−」、東洋英和女学院大学大学院発行『東洋英和 大学院紀要』、第15号(2019年)、13-22頁の【ダイジェスト版】です。全文は
https://toyoeiwa.repo.nii.ac.jp/records/1501
で公開されておりますので、詳細を知りたい方はこちらをご覧ください。)

1)はじめに

 「小さな死生学」は、「小さな死」に焦点を当てた「死生学」です。「小さな死」とは、例えばカトリックのシスターであった渡辺和子さんの著書や他の議論で取り上げられ、「やがて来る大きな死のリハーサル」とされたり、「自分のわがままを抑える」といった意味で使用されています。また、「小さな死」の使われ方は、喪失感に結びつけたり、欧米では性の快楽の絶頂期を指したり、「大人の死」に対しての「こどもの死」を指すものとしても使用されています。これらの「小さな死」には共通して、大きな死、つまり自分の死に関連付けられ、その受容が問題にされています。これは現代の死生学の課題であり、「小さな死」の議論を通じて「自分の死」の受容について考える可能性が示されています。

2)「小さな死」と「大きな死」の関係

 死生学に関連して、「小さな死」について論じている代表的な議論をいくつか紹介します。

 平山正実は、高齢期における「小さな死」を「喪失体験」として捉え、これと「大きな死」、つまり「自分の死」との関連性を強調しています。彼は「小さな死」の経験が「大きな死」に対処する能力を養う重要な要素であると主張しました。

 柏木哲夫も平山と同様に「小さな死」を「喪失体験」と位置づけ、これが「大きな死」の受容に影響を与えると述べています。彼は「小さな死」の体験が「自分の死」との経験的な連続性を持つことを示唆しました。ただし、具体的にその連続性がどのように形成されるかについては詳細な議論は示していません。

 山崎広光の議論によれば、「小さな死」は「部分死」とも呼ばれ、人生のさまざまな終わりや喪失体験を指します。これらの経験は死の観念形成に寄与し、新たな自己の生成に関連しています。山崎は、「小さな死」は「本当の死」、つまり「自分の死」とは異なり、それとは非連続な関係にあると主張しています。彼は、「小さな死」の経験は「死の観念」に影響を与えるが、「本当の死」については無知のままであると述べています。

 これらの議論から、「小さな死」と「大きな死」の関係は、平山と柏木が連続性を強調する一方で、山崎は非連続性を主張しており、それぞれ異なる立場を取っていることが明らかです。しかし、どの立場でも「小さな死」の議論は常に「大きな死」への意識と関連しており、これらの議論を通じて「小さな死」と「大きな死」の関係性が探究されています。

3)渡辺和子とバタイユにおける「小さな死」と「大きな死」

 前述した渡辺和子の「小さな死」には、「小さな死①」「小さな死②」「小さな死③」という3つの意味があると考えられます。最初の「小さな死①」は「大きな死」のリハーサルと捉えられ、次の「小さな死②」は自己中心的な欲望を抑制する経験を指し、「小さな死③」は新たな生を生む死とされます。渡辺の議論では、「小さな死」を通じて「大きな死」に向かうリハーサルができ、また、新たな生の可能性が示唆されています。しかし、渡辺の議論には「小さな死③」における新たな生を経験的に捉える難しさがあり、宗教的な意味に依存する可能性も示唆されています。

 また、フランスの特異な思想家であったジョルジュ・バタイユも「小さな死」を議論しており、その「小さな死」と「大きな死」、つまり「自分の死」に関する議論では、性の快楽の絶頂期を「小さな死」とし、「破滅的な浪費」や「喪失」と結びつけており、また、その「大きな死」との関係について、性から恐怖への移行として説明しています。
 更に、バタイユは「生殖」を「生の不死性」の一様相として捉え、性欲からの絶頂期の「小さな死」において「自我の孤立性の否定」が存在すると説明します。この「小さな死」は「個体としての死」、すなわち「自分の死」である「大きな死」へと経験的に接近しますが、経験的には「個別的人間存在」そのものは否定されえないため、「小さな死」と「大きな死」の関係性は、連続性と非連続性を同時に持つ関係と考えることもできます。したがって、バタイユの議論においても、「小さな死」と「大きな死」の関係は連続性と非連続性を同時に備えたものと言えると思います。

4) まとめ

 渡辺の「小さな死」とバタイユの「小さな死」の比較によれば、渡辺の「小さな死」は「大きな死」へのリハーサルとして機能し、「大きな死」に向かう際に経験的に断絶する一方、バタイユの「小さな死」は「個別的人間存在への否定」を追求しますが、「個別的人間存在」自体は否定されないと説明されています。これらの議論により、「小さな死」は、「大きな死」との関係において、連続性と非連続性を同時に持つ可能性が示唆され、死生学において大きな可能性を持つ概念とみることができると思います。

 なお、渡辺が「小さな死」を論じ続けた背景には、彼女の経験に根ざした葛藤が影響していた可能性があります。渡辺は、二・二六事件において、父親を目の前で惨殺された経験から、「赦せない」自分と「赦しを求められる」自分との葛藤を抱え続け、これが「小さな死」の議論につながっていたと言えます。この葛藤を通じて、「小さな死」の積み重ねが最終的な「大きな死」によって新しい命を生み出すことを求め続けたと考えられます(拙稿「「小さな死」と「赦し」」【本講座第7回】を参照のこと)。すなわち、渡辺における「小さな死」と「大きな死」の関係は、連続性と非連続性を持ち、彼女の生涯の葛藤と関連していた可能性が示唆されています。

参考文献(順不同)

平山正実「立ち止まって人生の棚卸しを」、大森千明(編集長)『AERA SPECIAL 死の準備 人生の店じまい』(朝日新聞社、1998年)
柏木哲夫『人生の実力』(幻冬社、2006年)
山崎広光『〈いのち〉論のエチカー生と死についての23講ー』(北樹出版、1995年)
渡辺和子『置かれたところで咲きなさい』(幻冬社、2012年)
渡辺和子『面倒だから、しよう』(幻冬社、2013年)
ウラジーミル・ジャンケレヴィッチ(仲澤紀雄訳)『死』(みすず書房、1978年)
ジョルジュ・バタイユ(酒井健訳)『エロティシズム』(筑摩書房、2000 年)
ジョルジュ・バタイユ(森本和夫訳)『エロスの涙』(筑摩書房、2001 年)
ジョルジュ・バタイユ(山本功訳)『文学と悪』(筑摩書房、1998 年)
酒井健『バタイユ入門』(筑摩書房、1996 年)
保阪正康『昭和の怪物 七つの謎』(講談社、 2018 年)
大林雅之『小さな死生学入門―小さな死・性・ユマニチュードー』(東信堂、2018年)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?