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小さな死生学講座第2回

はじめに


前回は、「小さな死」ということを小生が考え始めたきっかけについて述べました。そこでは、「小さな死」という言葉は、渡辺和子さんばかりではなく、様々に使われていることを紹介しました。「小さな死」は、我々の想像力を大いに刺激してくれる言葉であることが分かったと思います。


今回は、渡辺和子さんが「小さな死」をどのような意味で使ったのかを少し詳しく見てみたいと思います。

小生は、渡辺和子さんの「小さな死」について論じる場合に、3つの意味で考えています。3つの意味を、「小さな死①」、「小さな死②」、「小さな死③」としました。それらの意味を、渡辺和子さんのベストセラーである著書『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬社、2012年)から引用して、ここで紹介してみたいと思います。

(1)「小さな死①」


渡辺和子さんは、「小さな死」について、まず「大きな死のリハーサル」として、次のように述べています。

「何事もリハーサルしておくと、本番で落ちついていられるように、大きな死のリハーサルとして、“小さな死”を、生きている間にしておくことができます。」(154頁)

つまり、「小さな死」は「大きな死」にいたるためのリハーサルであり、日常生活の中で生きていながら、「大きな死」、すなわち恐怖の対象でもある「自分の死」を音楽会での演奏のリハーサルをするように経験できるというのです。

このことは第1回の講座でも述べましたが、とても印象的です。なぜなら、「自分の死」は見たり、触ったりができないのではないか、つまり、感覚もなくなり、意識もなくなるようなことを本当に経験できるのであろうか、と考えるとできそうもないからです。

しかし、「臨死体験」というのを聞いたことがあるよ、と言われるかもしれません。例えば、「三途の川を渡ろうとしたら、戻っておいでと言われて、生き返った」という人もいます。それでもよく考えてみると、生きているからそのような夢を見たような経験を話せるのであって、生きていて死んでいないから言えるのだと考えることもできます。

もちろん、息が苦しくなる、気が遠くなるような死にいたるプロセスでの経験は、その時点でできるかもしれません。しかし、それはそのプロセスでの経験であって、自分が死んだことそのものの経験ではないとも言えるからです。それでは、自らの「大きな死」のリハーサルである「小さな死」とは具体的にどのようなことなのでしょうか?このことを「小さな死②」が示してくれます。

(2)「小さな死②」

小生が「小さな死②」としている意味を、渡辺和子さんは次のように述べています。

「“小さな死”とは、自分のわがままを抑えて、他人の喜びとなる生き方をすること、面倒なことを面倒くさがらず笑顔で行うこと、仕返しや口答えを我慢することなど、自己中心的な自分との絶え間ない戦いにおいて実現できるものなのです。」(154 頁)

ここでの「小さな死②」は、「自分のわがまま」を、「がまん」したり、「抑制」したりすることを意味しています。いわば「自分」を押し殺すことであり、自分を制限することであり、このことが「小さな死①」でいう「リハーサル」ということなのです。

全くの自分、つまり、意識、精神も肉体も無くなってしまうことが「大きな死」とすれば、そのリハーサルである「小さな死」は、自分の中にあった「わがまま」や「欲望」という「自分の一部」を押し殺し、押さえ込み、つまり自分から「失なわさせる」、「失う」経験とも言えます。経験できないと思っていた「自分の死」に経験的意味を持たせてくれるものと考えられます。このように「小さな死」の意味を考えると、「自分の死」、つまり「大きな死」を経験的に考える手がかりを得たようにも思えます。

(3)「小さな死③」

渡辺和子さんは「小さな死」にもう一つの意味を述べています。それを小生は「小さな死③」としました。渡辺和子さんは次のように述べています。  

「「一粒の麦が地に落ちて死ねば多くの実を結ぶ」ように、私たちの“小さな死”は、いのちを生むのです。」(155頁)
 
ここでの「小さな死③」は、「いのちを生む」、「多くの実り」をもたらす死という新たな意味を示していると考えられます。「小さな死①」、「小さな②」におけるような、日常的な経験を「大きな死」に結びつけるのではなく、新たな「いのち」を生み出すというのです。「大きな死」は「新しいいのち」を生むものと言い、聖書にある「一粒の麦」のたとえに言及していることからも、日常的な経験での理解を超える宗教的な意味を持たせたものであり、「小さな死①」と「小さな死②」の意味とは次元を異にしているものとも考えられます。

以上のことから、「小さな死①」、「小さな死②」、「小さな死③」は、それぞれにおいて、次のような、意味の関係が見て取れるように思われます。

「小さな死①」はリハーサルという経験的意味を持たせています。そのリハーサルという経験を「小さな死②」で、「がまん」や「抑制」という倫理的意味を持たせて、「小さな死③」は「新たないのちを生む」という宗教的意味を持たせていると言えるのではないかと思います。渡辺和子さんは宗教者でもあるので、「小さな死」の経験的意味に気づかせて、それを踏まえてさらに宗教的な意味へと繋がるように意図していたようにも思われます。

ここでは、渡辺和子さんが意図した宗教的な意味は、小生はキリスト教の信者ではないのでなかなか理解し、説明することはできないのですが、前述したように、「小さな死①」と「小さな死②」の意味は、「リハーサル」や「がまん」という日常的に経験することを意味しています。しかしながら、「小さな死③」は日常的な経験からは考えにくように思います。

以上のように、渡辺和子さんの「小さな死」は3つの意味を持っていると整理できると思います。今回はここまでです。次回は、「小さな死①」と「小さな死②」から「大きな死」へ至る過程を具体的に考え、その後に「小さな死③」について改めて考えてみたいと思います。

まとめ

・渡辺和子さんの「小さな死」には3つの意味、すなわち「小さな死①」、「小さな死②」、「小さな死③」がある。

・「小さな死①」は、「自分の死」である「大きな死」の「リハーサル」ということである。

・「小さな死②」は、「自分のわがままや欲望」を「押し殺す」ことである。

・「小さな死③」は、「新しいいのちを生むこと」である。



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