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五感の解像度を上げる

気づいたらここ2年ほど、プライベートが大体

・美味しいご飯を食べに行く
・展覧会やギャラリーを巡る

になっていて、それをよくインスタグラムに投稿するようになった。「フォトジェニック」というワードがかなり定着してきた2010年代も終盤、この2つの活動はまさに「映え」である。

ただ、自分にとってこの行動はにおしゃれアピールをしたいとか、シェアしたいとか、そういう欲求ではないことに気づいた。どうやら「知りたい」がすべての原動力になっている。

例えば。美味しいご飯を食べに行ったら、写真を撮ったのちに美味しくいただき、食後にノートを広げて「何に対して美味しいと感じたのか」「これを食べたことで何を思い出したのか」などなど思い浮かんだことをなんでも書き留める。アート鑑賞をするときも展示室にノートを持ち込み、作品の印象やパネルで気になったキーワードを書き殴っていく。撮影OKなら気になった視点からバシャバシャ撮る。記録・投稿用ではあるけれど、カメラを通すことが俯瞰としてもとても重要な意味を持っているからだ。

何らかのインプットをしたなら、アウトプットするまでがインプット。アウトプットできる状態まで咀嚼できてないインプットは、インプットとは呼べないとしている。我ながらクソ真面目で気持ち悪いなあと思うけど、編集者という伝える立場であるからには、感じる(受け取る)力が要る。伝える=感じると言ってもいいんじゃないだろうか。テレビの食レポだって美味しそうに食べて美味しそうに「美味しい」を言えるだけじゃ食っていけないわけで、どこに着眼したのか、どんな食感や味かを言語化できる人が生き残っているんだし(なので食レポもきっとできそうって地味に自信ある)。

感じたこととその理由をちゃんと言語化する習慣をつけると、次に何かを鑑賞したときになぜ感動したのか、何を感じたのかがどんどん明確になっていく。だから、五感の解像度を上げて、受け取れるだけの情報を持って帰ろうとするようになった。単なる貧乏性か、かつて水泳に人生を捧げた筋トレマニアが脳トレマニアになっただけかもしれないが。

画像の解像度が高いほどデータが重いように感覚の解像度が上がれば上がるほどインプットにも体力を消耗するけれど、やっぱり見えてくる世界がぜんぜん違う。

その日その瞬間感じたことを素早く言葉にすることは、実はnoteをコンスタントに更新するための練習でもある。インスタだけにインスタントであることを利用して、今度は非常に苦手な「小さなことからコツコツと」の克服を試みていることころ。

トップ画像は5月に出会ったロバート・ボシシオのペインティング作品。近くで観たときのディテールと、俯瞰で観たときの輪郭から受ける印象が同じ絵とは思えないほど違っていて感動した。絵を観る解像度をぐっと引き上げてくれた素晴らしい展示でした。


本を買って、いろんな方に貸出もできればと思っています。