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舞台挨拶『カリスマ ~国葬・拳銃・宗教~』 宮台真司「古きを訪ね、受け継ぐことで新しいことを。佐井監督の作品はそれができてる」佐井監督「誰にとっても自分の映画になるはず」

『日の丸~寺山修司40年目の挑発~』の佐井監督による最新作『カリスマ ~国葬・拳銃・宗教~』は、かつて世間を驚かせた「永山則夫」「イエスの方舟」…。日本社会のエキストラと主役(カリスマ)に時を超えてマイクを向ける。
 
映画祭初日に上映を迎えた本作の上映後には、佐井大紀監督と社会学者の宮台真司を招いて舞台挨拶を実施。佐井監督は「若い方もいらして、諸先輩方もいらして…恐縮です」と詰めかけた観客に感謝し、宮台は「本当に若い方が多い。しかも女性もいて、女性はやはり感度が高いですよね」と感心していた。

宮台は「この作品ではATGや若松プロ作品などの1960年代後半のモチーフが再現されている。それは単なる模倣ではなく、時代がそれを反復しつつあるということ」と鋭く指摘。本編ではカリスマへのインタビュー、国葬、永山則夫、イエスの方舟などが紹介されるが「今の若い世代は映画をストーリーで見ており、繋がり具合が唐突だとわかりにくいと思うようだが、それは映画を観るリテラシーが低いだけ。映画とは隠喩的に観る、対立構造で観るもの。カリスマが太陽だとすれば、エキストラは月。光を発するものと、光を発するものがないと輝けないもの。それが映画の主役とエキストラに平行移動されている。皆が輝きたいと思い、輝けるここではないどこかに出たいと願うが、出られないだろうで終わるドキュメンタリーだ」と分析した。
 
その「ここではないどこか」というテーマは近年国際的に描かれる事象だそうで、宮台は「ロウ・イエ監督の『シャドウプレイ』、パク・チャヌク監督の『別れる決心』もそうだが、本当の自分を回復しようとするが失敗して押し出される。しかしそれが美学であるという大和屋竺的なものを国際的に反復している。社会という船の座席を争っていたって、その船はしょせん沈む泥船であるということがやっとわかり始めたのかもしれない」などと語った。
 
大和屋竺作品好きという佐井監督は「鈴木清順監督の映画を振り返ると、そこには大和屋竺がおり、黒沢清監督や高橋洋のJホラーを振り返ると、そこにも大和屋竺がいる。大和屋竺を掘っていくと、ここではないどこか、自分とは何かというアイデンティティクライシスが見えてくる。彼が描き続ける、行き場のなさのようなものが僕の中で刺さりました」と影響を語り、本作製作にあたり「ドキュメンタリーとは主観的な目線が出るメディア。取材対象者とのコミュニケーションを重ねていく中で、自分とは誰か?という不安が生まれ、自分もエキストラに過ぎないのではないかと思わされた」と打ち明けた。
 
そして佐井監督は「エキセントリックな映画かもしれないけれど、誰にとっても自分の映画になるはずです。多くの方々に観ていただき、自分は何者か、そして今の社会構造を考えるきっかけになれば嬉しい」と期待。宮台は「人間とは反復の生き物であり、自分の考えはかつて誰かが考えもので、その反復の中でものを考える人と考えない人がいるだけ。考える人も実は何度も何度も反復されてきた。古きを訪ねて受け継がないと無駄な労力を使うだけ。受け継ぐことで新しいものを加えることが出来る。今のリソースを使って再構成することで新しいことを付け加えるためには継承が必要。それを佐井監督の作品は示している」と温故知新の重要性を説いていた。

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