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【READY STEADY TOKYO日本新記録の期待⑥女子100mハードル 寺田明日香】

今季12秒96と0.01秒の日本記録更新をしている寺田
五輪標準記録の12秒84まで一気更新の可能性は?

 ママさんハードラーの寺田明日香(ジャパンクリエイト)がREADY STEADY TOKYO(5月9日@国立競技場)で目指すのは、自身の日本記録12秒96の更新だけでなく、五輪参加標準記録の12秒84を破ることだ。
 READY STEADY TOKYOは東京五輪テストイベントとして実施される大会。日本記録更新や五輪参加標準記録突破を期待できる選手たちを、TBSのLIVE配信で自宅から応援できる。

●五輪出場資格は標準記録と世界ランキング

 寺田明日香が織田記念で出した12秒96(+1.6)は、自身の持つ日本記録を0.01秒だけ更新した。速報のランニングタイマーが12秒97の日本タイで止まったため、日本タイ記録の可能性があった(正式計時は速くなることも、遅くなることもある)。それもあって「自己タイと自己新記録は違う」と喜ぶことができたし、念願だった長女の果緒ちゃんと一緒のタイマー撮影もできた。
 だが、寺田が18年12月に陸上競技への復帰を決めたとき(試合復帰は19年4月)、最大目標として「復帰したからには世界で戦いたい」と考えていた。19年の世界陸上ドーハ大会は12秒98の参加標準記録を破って出場できたが、東京五輪は標準記録が12秒84まで上がっていた。
 世界陸連が標準記録を引き上げた理由は、各種目の参加人数調整のためだ。例えば女子100mハードルは出場人数を40人と、枠を決めている。標準記録を高く設定することで、標準記録突破による出場資格を持つ選手を、その何割かに抑える。世界陸連ホームページによれば現在25人が突破していて、残りの15人は標準記録未突破者の中から、世界ランキング上位者が出場できる(1国最大3人)。
 寺田は現時点で50番目に位置している。今後世界ランキングのポイント(タイムによるポイントと、大会の順位によるポイントの合計)を上げれば、標準記録未突破でも40番以内に入って出場権を得られる可能性もある。
 だが、確実に出場権を得るには12秒84の標準記録を切らないといけない。世界ランキングでの出場は、他の選手次第ということになるからだ。
 織田記念後の取材で寺田は「READY STEADY TOKYOは新国立競技場を走る貴重な機会。楽しみたいな、と思っていますし、そこでも12秒84を狙って行きます。(切れますか?)切ります!」と力強く宣言していた。

●6台目でハードルにぶつけたロス

 織田記念の記事(https://note.com/tbsrikujou/n/n18fa0bf7e8ad)で男子110mハードルで日本記録を0.09秒更新した金井大旺(ミズノ)を例に、男子110mハードルと女子100mハードルでも自己記録を大きく更新するケースがあると紹介した。技術の進歩や走力の向上で1台あたりのタイムが仮に0.01秒伸びれば、10台を跳んだときに0.1秒の短縮になる。
 つまり0.01秒の更新では、ハードル技術が大きく進歩したわけではないことになるが、動画を見ると寺田は6台目で抜き脚をハードルにぶつけ、若干バランスを崩している。そのミスがなければ0.1秒程度の記録更新ができた可能性が高い。
 6台目でハードルをぶつけた要因として、高野大樹コーチは「1台目から2台目で、インターバルの走りもハードルへの踏み切りも、地面を押しすぎていた」ことを挙げた。
 13年までの「第1次陸上競技時代」(寺田)は、当時も100mで11秒7台を出していたが、寺田の跳躍力を生かした傾向が100mハードルに出ていた。地面をしっかり押して推進力につなげていたので、踏み切り位置がハードルに近づいていく傾向があった。持ち前の身体能力で踏み切った後の体をコントロールし、踏み切り位置が近くなってもハードリングができていた。
 だが、それでは限界があると判断し、復帰後は遠くから踏み切るハードリングに変更してきた。そのためには地面を押して走るのでなく、「スプリント(純粋な短距離走)と同じように、接地時間の短い走り」(高野コーチ)で、素早くピッチを刻む必要があった。寺田もつねづね「特徴のスプリントを生かすハードルをしたい」と話している。
 8日に放映されたTBS番組のバース・デイでも紹介されていた、「リード脚のヒザが伸びないハードリング」もその延長線上の動作になる。インターバル間を速く走り、ハードルも跳ぶのではなく、走る動作の一環としてまたぐ。そうすると自然に、リード脚のヒザが伸びなくなる。
 1次陸上競技時代の100mは高校3年時の11秒71(インターハイ100mに優勝したときの記録)がベストだったが、復帰1年目の19年7月に11秒63と更新した。その後はあまり100mに出場していないが、今年の織田記念前に練習で行う60mで、自己最高タイムが出ている。
 織田記念で「スプリントが上がっているのにハードル技術が粗くて、100mハードルのタイムに結びついていない」と寺田は反省点を挙げていた。その象徴が6台目で脚をぶつけたことだ。ハードル技術の粗さが解消されれば、寺田のタイムは一気に伸びる。

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●多くの経験と、家庭を持つ女性としての取り組みが集中力に

 大幅な記録短縮と直接的に結びつくところではないが、寺田の競技に取り組むバックグラウンドが広がっていることも、記録短縮へ大きなプラスになっている。
 何度も紹介されていることだが、寺田は第1次陸上競技時代も13秒05をマークし、日本人初の12秒台が期待される超有望選手だった。09年の世界陸上ベルリン大会では代表入り。だがその後ケガをして長期間低迷し、12年ロンドン五輪出場を逃した。「絶望を感じてしまって、グラウンドに行くのも嫌だった」と、13年に引退した。
 しかし私生活では佐藤峻一さんと結婚し、充実していたことがその後の人生を切り開いた。
 第1次陸上競技時代は恵庭北高、北海道ハイテクACと中村宏之監督の指導を受け、強豪チームのスタイルで結果を出すことができた。だが29歳で陸上競技に復帰したとき、第1次陸上競技時代とは生活そのものがまったく変わっていた。競技への向き合い方、人生の中でどう競技を位置づけるか、という部分は変わらざるを得ない。同じスタイルの集中力は発揮できない状況だった。
 しかし、引退後の人生経験が、寺田の人間としての幅や判断力を広げていた。14年に出産し、16年から7人制ラグビーで本気で日本代表を目指した。その間に大学院に行き、普通のOLとして仕事も経験している。そうした経験をした上で、もう一度陸上競技で世界を目指そうと決心した。陸上競技が全てに近い生活だった第1次陸上競技時代とは違い、陸上競技以外の価値観も持った上で、数ある選択肢の1つとして陸上競技を選択した。
 家族を持つ一女性として育児、家事など競技以外のこともしっかりと行う。家庭にいるときはトレーニングはいっさい行わないが、グラウンドに出たときはその分、気持ちを切り換えて集中できる。高野コーチと何時間も話し合うことができるのは、自分の考えで競技を突き詰めたいからに他ならない。
 ただ、自分で方針を決めて突き詰めていく考え方は、第1次陸上競技時代に下地があったからできたことかもしれない。北海道ハイテクACの練習は、中村監督が色々なトレーニングを考案して選手に提示するが、どの種目を何本行うか、どのくらいの負荷をかけるかは選手自身が判断していた。場面は限定されてはいたが、自分で考えるスタイルは当時から行っていたのだ。
 それが復帰後に、コーチ、トレーナー、マネジャー、管理栄養士などスタッフを自分で集め、“チーム明日香”を結成して自身の判断で競技方針を決めていく今のスタイルにつながった。
 何よりママとして、家族を持つ一女性として競技をすることが、寺田のやり甲斐になっている。
 織田記念の記事で紹介したように、果緒ちゃん(6歳)が寺田の競技成績に興味を持ち始めた。織田記念では「果緒が私の日本新をうれしいと言って泣いていたんです。彼女の成長が感じられて私も泣いてしまいました」と話した。復帰したときに自身が競技をする姿で、難しいと思われる目標に対しても頑張る姿勢の尊いことを、娘に見せたいと考えた。
「果緒に速いって言われたいし、そういう場面があることを楽しみにやっています」
 寺田が記録を縮められる理由は数多くある。

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TEXT by 寺田辰朗
写真提供:フォート・キシモト

9日(日)よる6時30分 TBS系列生中継
『READY STEADY TOKYO陸上』
東京2020オリンピックテスト大会

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