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【シアターコモンズ'24】太陽を夢見る魂の旅——アピチャッポン・ウィーラセタクン《太陽との対話(VR)》をめぐって

石倉敏明(秋田公立美術大学准教授)
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 私はいま、最近体験した二つの忘れ難い出来事を思い返している。一つは東京で体験したアピチャッポン・ウィーラセタクンのVRパフォーマンス作品であり、これは会場の中央に設置されたスクリーンの映像と、VRのヘッドセットを通して体験するヴァーチャル・リアリティの二部構成によるものだった。もう一つは、ネパールの首都カトマンズで体験した地元の祈祷師(ジャクリ)による治癒儀礼であり、それは神々の召喚と米粒を用いた占い、太鼓のリズムに合わせたマントラの朗唱を組み合わせた浄化と私自身の脱魂的なビジョンによって構成されていた。誤解を恐れずに言えば、この二つの体験の現実感覚は、よく似ていた。いずれの体験も私の意識に潜在するイメージの深層領域を揺さぶり、心身を賦活し、目の前にある現実と関わる態度を根底から問い直す契機となった。
 アピチャッポン・ウィーラセタクン《太陽との対話(VR)》は、国際芸術祭「あいち2022」からの委嘱を受けて制作・発表され、これまでに世界演劇祭2023やタイランドビエンナーレ・チェンライ2023で多くの人々に衝撃を与えてきた、VRによる体験型パフォーマンス作品である。私は東京でこの作品を体験した際、完全に覚醒状態にありながら、同時にゴーグルを通して体験する現実感覚に深く没入した。私の体験したシャーマンの治癒儀礼が太鼓と朗誦のリズムによって導かれ、舞踊と演劇の原型とも言える駆け引きを含んでいたように、アピチャッポンのVR作品は、展示空間に流れる濃密な環境音と坂本龍一の作曲による音響を最も基本的な構成要素の一つとしつつ、ヴァーチャルな映像体験の力を借りて太陽と魂との親密な対話を体験させてくれた。

©シアターコモンズ'24 / photo: Shun Sato

 《太陽との対話(VR)》は、前半部の鑑賞者と、後半部を鑑賞する人びとの集団が、互いにとって極めて重要な意味を持ちうるように設計されている。会場に入った鑑賞者は、最初の30分間をVRゴーグルなしの状況で、中央部のスクリーンに映し出されるいくつかの映像を鑑賞することになる。それらの映像は表裏で異なっており、鑑賞者は位置を変えながらその双方を鑑賞する。中央部のスクリーンには穏やかに睡眠する世代と性別の異なる人々の姿、揺れるハンモックやギターを爪弾く男の姿、群衆や回転するネオン管などの映像が映し出される。再び睡眠する人々の姿が浮かび上がり、想像力を喚起する短い言葉が挿入される。鑑賞者はその間、VRゴーグルをつけて会場をさまよう後半部の鑑賞者をうまく避けながら、前半の鑑賞体験を続けることになる。それは、例えば美術館やギャラリーで、他の鑑賞者と無意識的に距離をとりながら移動するときの身体感覚に似ている。こうして、両面に映像が映し出されたスクリーンが中心部に置かれ、その周辺で位置を変えながら映像を鑑賞する前半部は、通常の空間認識に根ざした鑑賞体験に留まっている。
 ところが、後半部のパートでV Rゴーグルを装着した後は、鑑賞者はスクリーンを超えた360度の映像に包まれながら、現実と仮想空間の境界のない世界に漂うことになる。それは、いわば前半部の映像で見た、眠る他者の夢の中にいつのまにか入り込んでしまったかのような脱魂的体験である。ヘッドセットをつけてすぐに気付くのは、あたかも自分が死者になったかのように、周囲で鑑賞する他者の身体が、人魂のように輝く光として感知されることだ。私はその会場で、人工的に操作された現実感覚によって宙吊りにされながら、誰かの夢の中を実際に生きているような不思議な現実感覚に陥った。そこには古代の洞窟壁画を思わせる線が描かれ、近くには巨大な石像が屹立している。その上に中央アジアの射日神話のように巨大な太陽が浮遊し、分裂し、多数化し、また一つに溶け合ってゆく。魂となった私たちは、足場の感覚を失ったまま洞窟のような通路を上昇してゆく。この作品の後半部は、こんなふうに安定した自己意識を前提とする従来の映画鑑賞を大きく越えて、私たち一人ひとりがヴァーチャルな太陽のイメージに対峙し、それに近づいたり遠のいたり、触ったり飲み込まれたりしながら、もう一つの現実感覚を体験することになるのだ。
 明確な二部構成、睡眠と覚醒のテーマ、魂の彷徨と転生という思想背景、見えないものとの交信、現実感覚の緩やかな変容——《太陽との対話(VR)》を構成するモチーフは、アピチャッポン映画や彼の作り出す映像インスタレーション作品のファンであれば、過去の作品から繰り返し用いられた要素であって、それ自体に新奇な出会いが含まれているわけではない。それにもかかわらず、この作品には明らかに決定的に新しい次元を含んでいる。それは、私たちが生きる地球と太陽の関係であり、その上で栄枯盛衰する生命の痕跡である。この作品を体験する私たちは、人間の歴史を含むそうした地球上の全ての生命現象が、実は太陽エネルギーによってはじめて可能になったという基本的なエネルギー代謝の認識に立ち還ることになる。それは、地球温暖化の進行によって環境が激変しつつあるこの時代に太陽のイメージを通して宇宙や地球の深層的な時間に触れる体験であり、さらに太陽エネルギーを変換することによって生きてきたすべての地球上の生命と、現代を生きる私たちがどのように関わるのか、という同時代の課題を認識することにもつながる[1]。
 地球は、太陽とともに移動し続けている。だから地球上で起こるあらゆる出来事の真相を知ろうとするとき、私たちは何よりも固定した大地や、不動の土壌といった前提を疑わなければならない。その点、この作品の遊動性は効果的に作用している。自由に遊動可能な会場で、VRゴーグルをつけてさまよう別の一群の鑑賞者集団を避けながら、中央のスクリーンに映し出された睡眠者の映像を眺めるとき、私たちは持続する覚醒状態にありながら、ただ寝ている人間を眺めるということが、映画の歴史においてラディカルな意味を持つかということを思い知る。それは、専ら視聴覚に限定された情報刺激によって鑑賞者の意識に訴える映画の方法論に対して、安定した座席を取り外してしまうくらいの大きな問いかけだと言えるだろう。私たちが「見るもの」として視聴覚を閉ざした睡眠者を鑑賞することは、意識の旅であった過去の映画が、無意識の旅である夢見や睡眠の体験と深く通底していることを逆説的に証明しているようにも思える。それは、私たちが鑑賞行為を通じて醸成する映画的な無意識というものが、いかに意識的な記号に操作されているかということを知らせる。ある意味で、それは政治的に深い啓発を含んでいる、と言えるかもしれない。
 しかし、この作品を特別なものにしているのは、ヘッドセットをつけてからの後半の部分によるところが大きい。前半の「移動可能な映画鑑賞モード」からさらに一歩進んだ「VRゴーグルを装着した鑑賞モード」に切り替わるとき、私たちは意識から無意識へ、地上から宇宙へ、生者の時間から死者のそれへと、自分自身の存在の様態を変容させなければならない。それは、ある意味では現代人が「非近代的」なシャーマンの儀礼を体験したときに感じる驚異や居心地の悪さにも似た眩暈の感覚を誘発する。それは、安定した自然が足元にあるという近代の存在論を溶解させ、自らが浮遊する魂そのものになって、神話的な次元に参入するある種の接触体験にほかならないからである。鑑賞者はそこで、半ば無意識のうちに世界の振動や光に包まれ、絶え間なく流動する深い現実を体験する。
 《太陽との対話(VR)》に登場する太陽は、やがて巨大に膨れ上がり、私たちの魂を飲み込んでしまうかのように感じられる。私は手をかざしてみたのだったが、当然のことながらそこに熱は感じられず、私の手も溶けなかった。だが、そこにはたしかに記号的な操作だけでは決して到達できない、ヴァーチャルな太陽との接触体験がデザインされている。現実に存在する太陽について考えるなら、地上に届く太陽エネルギーのほとんどは消尽され、地球上の生物が自らの活動に役立てられるのはほんの僅かな部分に過ぎない。だが、VR映像の技術を使ってこの太陽を直視し、対面し、対話するとき、私たちはもはや一つの作品を安全に鑑賞しているという意識を超えて、未知の次元に遭遇することになる。つまり、ある意味では私たち自身が、絶え間なく変容し、さまざまなあり方で生まれては死んでいった地上の生命になり代わり、その生命を得るきっかけとなった太陽に対峙することになるのである。世界中で激甚化する地球温暖化の時代にあって、これほどまでに重要な問いかけはあり得るだろうか?
 人が神話の情景に立ち会う、というのはこの場合は話を単純化しすぎだろう。むしろ毎朝太陽がのぼるときに私たちが体験しているはずの圧倒的なエネルギーの贈与を、このような芸術の形式を借りることで、はじめて神話以外の理解可能な形式に落とし込むことができたのではないかと、理解し直してみたい。シャーマンという特権的な媒介者抜きでこのような神話的体験を可能にするVR技術は、ある意味では象徴的な記号の媒介なしに、身体の生理的なプロセスに立ち返って太陽を観想する瞑想体験に近い表現として、理解することができるのかもしれない。それはあらゆる映像メディアが発明される前にオーストラリア先住民やチベットのゾクチェン思想の中で継承された太陽の観想法を思わせるものであり[2]、さらには、先カンブリア紀の原始三葉虫がこの世ではじめて「眼」を享受した際に体験したであろう、光刺激を利用したもっとも古い時代の視覚映像をも想起させる[3]。
 アピチャッポン・ウィーラセタクンは、これまでも現代における予測のつかない豊穣な才能の持ち主として、同時代の映像表現の最先端を切り拓いてきた。だが、彼の探究は決して表現技術の目新しさや実験性そのものを重視しているだけではない。彼は、絶え間なくこの世界を流動する生命そのものに対する驚きを隠すことなく、私たちが日常的に触知し得ない超現実的な次元にも真っ直ぐに対峙してきた。アピチャッポンの映画は、ヨーロッパを直接の起源地とする近代視覚芸術やその発展系としての映画の歴史を超えて、より普遍的な意味での人類の精神文化の系譜に触れているのだ。その鑑賞体験は、私たちがただの受動的なエンターテイメントの消費者であることから脱して、目や耳といった器官を超えて世界を知覚しなおそうとする映画のもう一つの可能性を思い出させてくれる。《太陽との対話(VR)》は、そうしたアピチャッポンの映画監督としての経歴に加えて、古代から脈々と続く魂の技術を現代に更新する驚くべき作品でもあるのだろう。これは、映画の歴史をたしかに前進させる試みであり、睡眠と覚醒、夢と現実、太陽と地球を再び接続し直すという壮大な意識の旅なのである[4]。

©シアターコモンズ'24 / photo: Shun Sato


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[1] 「太陽中心的」なエネルギー代謝論は、バタイユの普遍経済学の基調となる重要な主題である。ジョルジュ・バタイユ『呪われた部分 全般経済学試論・蕩尽』酒井健訳、ちくま学芸文庫、2018年を参照。

[2] 中沢新一は『精神の考古学』(新潮社、2024年)の中で、チベット高原をはじめアフリカやオーストラリアの精神文化にも継承されてきた「太陽を見つめる瞑想」について、人類史的な考察を行っている。

[3] アンドリュー・パーカー『眼の誕生』(渡部政隆・今西康子訳、草思社、2006年)は5億4300万年前に地上に生じた感覚可能な太陽光の増大が動因となって、生命体が最初に「眼」を獲得したという興味深い進化仮説を提起している。

[4]「太陽との対話」という主題はアピチャッポン作品を超えて、シアター・コモンズ2024のプログラム全体に響き合う宇宙的な関心の方向性を明示していた。すなわち、サオダット・イズマイロボの映像を通してイスラーム神秘主義の思想家スフラワルディーの多世界論が蘇り、市原佐都子の演劇『弱法師』を通して中世日本から連なる俊徳丸の神話サイクルが再び動き出す。しかもイム・ミヌクの映像インスタレーション作品に散りばめられた華厳思想のモチーフや夕陽の映像は、俊徳丸に描かれた日想観伝承やアピチャッポン作品に登場する太陽のモチーフとも見事に響き合っていた。

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石倉敏明(いしくら・としあき)
1974年、東京生まれ。人類学者。秋田公立美術大学アーツ & ルーツ専攻准教授。シッキム、ダージリン、ネパール、東北日本等でフィールド調査、環太平洋の比較神話学やアーティストとの共同制作を行う。2019年、第58回ヴェネチア・ビエンナーレ国際芸術祭日本館展示「Cosmo-Eggs | 宇宙の卵」に参加。共著書に『野生めぐり 列島神話の源流に触れる12の旅』『Lexicon 現代人類学』『モア・ザン・ヒューマン マルチスピーシーズ人類学と環境人文学』など。

シアターコモンズ'24
アピチャッポン・ウィーラセタクン《太陽との対話(VR)》https://theatercommons.tokyo/program/apichatpong_weerasethakul/
※パフォーマンスは終了しました。


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