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あいさつから始めよう

私の減量計画は成功しているかわからないが、失敗はしていない。

自分の定義では、リバウンドが何よりの失敗で、午後10時以降もダラダラ飲み続けるのも失敗。

その点では大丈夫だ。

ただ、午後10時までには飲み終わらねば、と時計と競争しながら飲み過ぎることがあり、二日酔いになる。阿呆だ。

2ヶ月近くたった。

サイゼリヤなどで誰ともしゃべらずに飲み、休日は自転車に乗っていると、家族以外とほとんど誰ともしゃべらないことになる。

我が惣菜天ぷら屋では、それなりに店頭でしゃべるが、仕事モードの時には、口でだけでしゃべっていて、心や腹の底までくつろいで話すわけではない。

行きつけの飲み屋では、他愛のない話題で終わるにしても、くつろいで他人と雑談をしていた。

くつろいで雑談する話題から、すぐには役立たないことでも色んなことを教わったり、自分がぼんやり思っていることが整理できたり、大事な時間だったんだな、と最近気づくことが増えた。 

なんとなく笑いながら話すだけでも、かけがえのないものだ。

それらを気づくためにも、行きつけの店に、行きつけない時間、は大事だったのだろう。

ところでいま、熊代亨さんの「推し」で心は満たせる?を読んでいる。

先日人間はどこまで家畜かの感想を書いたが、同じ著者。

人間には「承認欲求」と「所属欲求」などがあって、単純に言うと、「萌え」は前者、「推し」は後者らしい。

人間は小さい頃に、その欲求を満たす旬の時期があり、例えば何をしても「いいよいいよ」と母親が受け入れてくれるような承認欲求を満たす時期と、自分の父親は強くて自分を守ってくれると感じるような所属欲求を満たす時期。

もちろん、親は完璧な存在ではないし、子育ても乱暴な家庭も多く、ある程度昔の社会では、親からそれを満たせなくても祖父母や近所の大人から、少しづつでも満たされていた。

しかし、今は核家族で共働きやシングルペアレント、周りに頼れる人がいない、我が家には我が家の方針があるから他人は放っておいてくれと言う親、様々な要因で役割を果たせる人がいない場合も増えた。

いまの世の中の「萌え」や「推し」の対象は、それらの子供の頃からの欲求を満たしてくれる。ほぼ完全な人格のように存在していて、自分の心が傷つきにくいので、心の充足を得るために、何歳になってでも、それ自体は否定することではない。

ただ、気をつけなければいけないのは、推しを崇拝するあまりに、リアルな自分の周りの人間を見下してしまったり、自分だけの存在と思い込みすぎて周りのファンとトラブルを起こすほどになったり、ビジネスと密接につながって破たんするほどお金を注ぎ込まないようにすること、などだ。

話は戻るが、親などの承認欲求や所属欲求を満たしてくれた人に対して、幼かった子供は成長するにつれて少しずつ「適度な幻滅」が起きるという。

それにより、その対象と自分の関係を調節していったり、その他の人との出会いの中に新しい対象を見つけていったりして、自分の心理的充足を満たしていく経験を増やしていくことが、成熟していくということらしい。

大人になって、リアルの世界で、そういう人が見つからない場合は、周りの人に対して、挨拶だけでも良いからすることが本の中では勧められていた。

そこには小さくて淡いお互いの承認欲求と所属欲求の充足がある。そこから始めるのでもいい、と。

不完全な存在としての人間と、関係していくことは大事だ、と。

私が店に立っていると、私に興味を持ってベビーカーから手を振ってくれたり、小学生が下校時に挨拶してくれたりするが、ある時期を過ぎると、手を振らなくなるし、挨拶もしなくなる。

それは健全な「適度な幻滅」なのだろう。

ということは、彼らは成熟していっていると考えてもいいのかもしれない。

いやっ、自分の推しに比べて、つまんねえ仕事してんなぁ、このオッサンとの気づきがあり、過剰に幻滅されたか…

まあ、いい。一瞬でもなにかの役に立ったなら。

この本を読んでいて気づいた。

行きつけの飲み屋があるということは、ささやかな承認欲求と所属欲求を満たす場なんだ。

そして、ドラマ「深夜食堂」は、どんな人も受け入れて、お互いが一つ成熟させてくれる理想の場を演じてくれたのかもしれない。

そんなことを考えた、初夏のような3月31日。

春満々。

春海橋、昔の列車の線路跡だそう。
亡くなった母親と同じ名前の橋。

そろそろ人と話をしたくなったなぁ。



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