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体に水分、心に演分

中学校3年の秋から英会話に通い出した。

有名女子高や大学が多くある町で、20人程のクラスの生徒は、ほとんど少し年上の女性だった。

アメリカのバークリー大学で小曽根真さんからピアノを学んでいた23歳の女性が、クラスの先生。

驚いた。

いろんな年齢の人がいるのに上下関係がほとんどない。レッスン中や、レッスンの後に(居酒屋に飲みに行ったりしていた)、いろんな話をしたが、私が何か言おうとして言葉に詰まると、「時間がかかって良いから、考えていることを言ってみて」とずっと待ってくれる。

そしてポロッと出た言葉を、すごく面白がってくれる。それいいね!と。

今までの学校社会の中で、「思っても言ってはいけないこと」が、この英会話の世界では「言わなくてはいけないこと」と、全くひっくり返った。びっくりした。

自分が思ったことを言っていい。
自分の意見を言わないと存在が薄くなる。

もっと自分の考えを深堀りして、もっと面白がってもらいたい、と思うようになった。

英会話のレッスンというのも、日本語を英語に翻訳することではなくで、自分の腹の底にあるものを英語で、日本語を通さずに直接湧き出てくるようにレッスンをしていたので、毎瞬毎瞬、自分の腹の底は何なのかを感じる癖がついたことは、自分の人生にとても大きな影響をもらったし、何より幸せだった。

話は飛ぶが、私の一人目の子供が小学生に上がり、1年生最初の学校公開日に行ったところ、授業が始まっていて、小学校に入ったばかりのすべての子供たちが、静かに椅子に座って、先生の方を見ていた。

ショックだった。

先月まで、自分らしくしていていいよ、と言われていた子たちじゃなかったのか。

また話が飛ぶ。

私のnoteは、最近、演劇の話が多い。

わが町で、6月に演劇祭がある。
演劇祭と言っても、商店街や区などから後援があるものではなく、演劇の人達が自分たちで作り上げるもの。

これから6月にかけて、もっと地元の演劇の話が増えそうだ。

私は、この町がより演劇に対してフレンドリーになってほしい、と期待している。

それは、私が演劇が好きだから、というとちょっと違う。

私は本当に演劇が好きなのかどうか分からない。

日常生活の中で知り合えた人の演劇は、楽しみにして観に行くが、知っている人が関わっていない演劇を観に行こうとはあまり思わないので、演劇が好きな人、ではない気もする。

でも、この町に演劇が必要と思うのは何故か。

それは、私が英会話のレッスンで受けたような、自分を表現すること、それを受け取ってくれる人がいることの楽しさを、もっといろんな人に知ってもらいたいから。

先生の言うことを聞いて、良い生徒と思われるだけが人生ではない。

おかしいと思うことは言っていいし、自分の考えをもっと言っていい。他の人と違う自分らしさを堂々と表現していい。内申点より大切なものもあるでしょう。

大事なのは、お互いの違いを表現する時に、お互いに対する敬意やルールを守ることなんじゃないだろうか。協調性とは、我慢することじゃなくて、対話をして理解を深めていくこと。

演劇は、人への敬意や、自分らしくいる自由を学ぶのに、とても優れているように思う。

なんだかんだ言っても、私は演劇のことは良く知らないので、変に口を出して、かえって足を引っ張ったりしないように気をつけたい。

でも、こんなことが起きたら面白い、と言うのがある。

この町が、演劇フレンドリーになったその次のステップとして、地元の小学生や中学校が、学習の中に演劇の手法を取り入れられないだろうか、ということ。

そして、演劇にたずさわる人達が、仕事として学校に行くようになり雇用が増え、社会的にもっと評価されるようになる。

子どもたちも刺激を受けて、演劇に興味をもち、大人になってからも、観劇に行くようになったり、次世代の俳優も生まれるようになる。

そして、演劇を授業に取り入れる学校が増える。

空気を読んで命令を待つ人でなく、自ら空気を作り、他者と意見をぶつけ合いなから、物事を創造していく人が増える。

そうやって少しずつでも、日本が変わっていかないか、と夢想している。