教育とは投資なのだろうけど

へえっと思った。

同僚が昼休みの雑談でこんな話をしてくれた時だ。

大学を出た後ワーホリに行くと言ったら、今までお前にかけた学費はそういうののためじゃないといたくがっかりされたという。ワーホリの費用は在学中にアルバイトで粗方自分で稼いだそうで、一度就職してみてからにしてはどうかといった親の引き止めには心を動かされずにそのまま海外へ飛び出したそうだ。

文脈としては、子供がスポーツのプロを目指したいという時どこまで支援できるかという話をしていたところで、将来への投資という意味では学業でもスポーツのような特定分野でも同じだよねという流れから、ふと思い出した感じで出てきた。

(同僚はとてもクレバーな人で、職場では(大学まではまったく駄目だったという)英語もばりばりに使って素晴らしい仕事をしている。海外の方と結婚してお子さんもあり、話に出てくるご両親は良いおじいちゃんおばあちゃんだ。)

塾の費用だったり学費だったりが親にとって子供の将来のための投資だということは、まったく否定しないのだけど、それを聞いた私はへえっと意外に思った。つまり、自分の親が同じ状況で、同じことを私に言う想像がつかなかった。うちの親だとしたら、ワーホリなんて言い出したら喜んでしまって始末に負えなかっただろう。やれ行けすぐ行けと囃してうるさかったのではないかと思う。

私の家族は、両親も姉も、基本的に学ぶことが楽しい。そしてどうにも無計画なところがあって、「今」楽しいかが将来に優先してしまう。

だから「将来のため」という行動欲求がほとんどない。理性ではちらっと考えることもあるが、その理屈では体が動かない。学校を選ぶ時、高校でも大学でも、どこで何を勉強するのが面白いだろうかということしか話に上がらなかった。将来何になりたいからこれを学ぶという発想が(少なくとも当事者である私には)皆無だった。親は色々心配したかもしれないが、表立って「大学受験に有利な高校が良い」とか「就職に有利か」とか「ここに入ってこれを学べばこの仕事につけるぞ」とか言われた記憶はとりあえずない。

なので、学校に払うお金は、純粋に、楽しい勉強のためのものだった。オプションで将来の役に立ったらそりゃー嬉しいが、それについてはくじ引きぐらいの期待値でしかなくて、投資としての性質はかなり薄かった。よしんば投資であったとしても、その目的はたぶん「その次の毎日が楽しくなるような下地ができるなら素晴らしい」というニュアンスになった気がする。将来に期待する利益はかなり曖昧模糊としていて、ふわっとした感じだ。

だから、何かの職業を目指して勉強するとか、スポーツに限らず何かのプロになるとか、あるいはもっと前段階で、この学校に入るために勉強するとか、そういう具体的な目標設定をして、そのための道のりに挑む人にはものすごい畏敬の念がある。学費にリターンを想定していた同僚のご両親の話は、計画と実行と結果の重みがあって、とても新鮮だった。

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