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#055 『あやまち』 娘に贈る99の言葉

犯罪をおかすようなあやまちでなくても、誰かに申し訳ないと思ったり、罪悪感を覚えるような『あやまち』を私は過去にいくつも抱えてきた。

若かったり、未熟だったりしたのだろうけれど、それは言い訳にならない。
法律をおかしてないから許されるわけではない。

あやまちを消すことはできない。
…と、自分の中で思っているけれど、大体のことは自分が勝手に『あやまち』だと思って罪悪感を持っているだけなのかもしれない。
そもそも許されてないなんて、確認もしてないのに勝手に思い込んでいるだけかもしれない。

私が抱えているあやまちは『取り返しのつくあやまち』なのかもな。

取り返しがつくのに、その時に逃げてしまった自分がいて、何もできなかった自分を悔やんで『あやまち』として記憶しずっと心に抱えてきたのかもしれないと気付いた。

おそらく、あやまちは2種類あって、取り返しのつかないあやまち取り返しのつくあやまちが存在しているように思う。

取り返しのつかないあやまちは、誰かを再起不能にしてしまうほど深く傷つけたり、犯罪を犯してしまうことを言うのではないだろうか。

そして、取り返しのつくあやまちとは、一度は誰かの心を傷つけてしまうかもしれないが、後の行動によって相手につぐない、そのあやまちを糧にできるもの、のことだと思っている。

取り返しのつかないほどのあやまちは私も正直言うと避けて生きてきた。
起き上がれないくらい誰かを深く傷つけてしまうことはしないように生きてきた。

ただ、あやまちを侵さないために自分の可能性を狭めて無難に生きていくことも、同じくらいしたくないことだった。

時にはあやまちをおかすかもしれないし、あやまちを抱えながら生きていくことの方が辛い時もあるだろう。

それでも、自分らしく生きることを選択してきた。
あやまちを恐れて、自分の人生を狭めることだけはしたくないと思って生きてきた。

あやまち(過ち)って、行きすぎて初めてわかることだと思うんだよね。
大丈夫の線を過ぎた時からあやまちが存在しはじめる。

自分のコンフォートゾーン(=快適な空間、居心地の良い場所)を抜けた時にあやまちは現れる。
コンフォートゾーンを抜けるとあやまちも起きやすいんだけど、人としての成長も起きやすい。

行き過ぎることで、あやまちにしちゃうのか、成長に繋げるのかは自分次第なところがある。

あやまちを怖がってコンフォートゾーンから抜け出せなくなると、生きやすい範囲は一向に広がらない。

あやまちを避けて生きることばかりに目を向けていたら、コンフォートゾーンはどんどん狭くなってしまうんだよね。

ただ、コンフォートゾーンを抜け出す時には行き過ぎるあまり、あやまちもおかしてしまうことがあるのも事実だ。

だからね、ちょっとづつ行き過ぎるってどうかな?
コンフォートゾーンを一歩づつ広げてみるくらいのペースで生きるのはどうかな。

時にはあやまちをおかすかもしれないけれど、その時に起きるあやまちのほとんどが取り返しのつくあやまちで、その後に自分で巻き返せるものばかりだと思う。(私の体験談だけどね。)

取り返しのつかないあやまちはしないしないほうがいい。

でも、取り返しのつくあやまちは時にはしちゃう覚悟で人生挑戦するのもアリかもしれんよ。
あやまちを糧にできたらいいだけかもね。

どちらにせよ、あやまちの責任を取れる自分でいたい。
そのために、自分に恥じない生きかたをこれからもしていきたい。

2023.12.3
ばたち


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