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化身の物語の端緒となるかー亀野あゆみ 宝生世津奈の事件簿/深海の使徒の「第X章 アバター、そして、コータローの涙」評

こちらのエントリーは第1回透明批評会 12月度 亀野あゆみさんの「宝生世津奈の事件簿/深海の使徒の「第X章 アバター、そして、コータローの涙」評の批評となります。
先に本編をお読みいただくことをお勧めします。

成田さんの批評がとても的確で素晴らしく、いつの間にか、それをなぞって書いていることに気が付いて、一度、手を止めました。それで、私は少し違った視点をもって批評していきたいと思います(という言い訳をしてはじめます)。

この作品は、世津奈、コータロー、怜子の3人の会話にフォーカスさせることで、それぞれの人物造形を深め、宝生世津奈の事件簿本編への呼び水となる短編になっています。

主な登場人物3人の内面を考察していきたいと思います。
まず最初に青木怜子についてさぐってみましょう。
彼女は

「それを暴いてやるのが、私の生きがいなの」

という、気概のあるジャーナリストです。
この物語の本編に登場する人物の多くは、タフな状況に飛び込んで行くタフなキャラクターたちです。その中でも、怜子は迷いの少ない真っ直ぐさを感じます。それが醸成されたのは、叔父夫婦に引き取られてのことであることが、怜子の過去を語る会話から読み取れます。それまでは、実の両親の元で一種の虐待の中を過ごしていました。

「不思議なことに、弟ができると、荒れなくなったのよ」

叔父夫婦の元で出会った「弟」によって養うことのできた優しさ。その優しさが、もう一人の登場人物、コータローへの親しげな態度に繋がっているような気がします。コータローは怜子に憧れのような気持ちで惹かれていますが、怜子は弟にするように穏やかに接します。そのことに世津奈は気付いていなくて、怜子のコータローへの態度を見て

「まんざらでもない気分」

になります。
怜子とコータローの恋の行方は、この短編では、ほのめかされる程度ですが、もう一歩進めるには、コータローがさらなる進歩を見せることが必要なように思います。

それでは、コータローはどのように描かれているでしょうか。
主人公、宝生世津奈の業務上のパートナーでもある彼は

「警戒を解いてよい状況ではない」

場所で酔っ払い、

「触れたくないこととか、後ろ暗いこととかが、一杯あるんすか?」

と絡んでくるちょっとウザいキャラクターとして描かれています。

「いかにもコータローらしい非・本質的なディテールへの突っ込み」

と断じられるほど。
しかし、それは無垢な部分を多く残していると捉えることができるかもしれません。
そして

「宝生さんは、ボクに、本当の宝生さんを見せてくれてないってことすか?」

と泣きつく。これがコータローの涙でしょうか。パートナーに見せる感情の振幅は、怜子とはまた違う素朴な真っ直ぐさです。甘えと言えるものかもしれませんが、その率直さが相手の心を開かせます。
結果的にその言葉が、世津奈の過去を紐解く、彼女の独特の考え方を引き出させます。

もうひとりの登場人物、本編の主人公、宝生世津奈は、ある特殊な思想を語ります。

「『本当の私』が、もしあるとしたら、宝生家の娘という『アバター』になる前の、赤ん坊の私だと思う」
「世の中と関わるようになると、だんだん『世間づきあい用アバター』ができてきた。『幼稚園用アバター』、『小学校用アバター』、『中学校用アバター』・・・という風にね。歳を重ねて、住む世界が広がるにつれて、いろんな『アバター』が出来てきて、それぞれがお互いに重なるところ、重ならないところがあって、結構複雑怪奇になってきて・・・」

アバターという考え方です。タイトルにも掲げられているこの言葉が、本作のテーマとなります。この部分を読んだ時に、私も成田さんと同様に平野啓一郎さんの「分人」という思想を思い出しました。

それとは別に個人的なことも思い出します。
アバターは元々、ヒンズーの思想でありヴェーダです。それは神の10の化身の物語です。
私が20歳の頃に出かけたインドへのひとり旅は、そのアバター、神の化身であるとされる人物へ会いに行くことでした。果たして、そのアシュラムに辿り着き、その人物のインタビュールームにも呼ばれました。指輪を物質化する場面にも遭遇しました(その後、紆余曲折あって、私はクリスチャンになりましたが)。

このように、アバターという考えは、それを冠した映画でもあったように、哲学的であり宗教的です。
ですので、世津奈のアバター思想の片鱗は、この短編でうかがうことができますが、もう少し踏み込んだ内容も欲しいと感じました。具体的には、どんなアバターを用いて捜査や調査に向かっていったのか、ということ。

多くの純文学と呼ばれる作品は、視点を内側に向けさせる傾向が強いと思います。翻ってこの作品は、エンターテイメントにカテゴライズされるものと考えます。エンタメは、外側をしっかりと構築し、積み重ねます。ディテールの周到さ、取材の徹底。それが作品を重厚にし、面白くさせます。本編を読んでいただければ分かりますが、そのようなディテールの積み重ねは当然のごとく緻密になされています。そこに、この短編のような内面をえぐっていく描写を加えることで、より作品は深まっていくと私は考えます。

本編はテンポよく速いペースで進んでいきます。それが、高揚感を生み出し、私たち自身をも急がせます。このドキドキする展開、リズムは読者をぐいぐいと事件に巻き込んでいきます。スリリングな演出は、ひとつの山を越えた時に読者に大きな爽快感をもたらします。

そのことを踏まえた上で、あえての提案となるのですが、局面ごとに世津奈の心理を描き出す、或いは本人が吐露する描写を挿入すること。たとえば、「私は今、小杉と会った時のアバターで、この人物と相対していることに気付いた」。アバターが林立し、立体化していく世津奈。

つまり、言いたいことは何かと言うと、深海の使徒編が完結したら、次、またその次にでも、アバター(思想)を主軸としたサイコロジカルなクライムサスペンスが読みたい、ということです! ……完全に一ファンの心の叫びとなってしまいました(お勧めいただいた「呪術」を読んだ影響もあるやもしれません)。
もし、このスピンオフにあるような人物の内面を掘り下げる描写が、章ごとに織り込まれてゆくのならば、「カラマーゾフの兄弟」のような、事件から紐解かれる、深い思想まで孕んだ物語になるのではないかと考えます。

深海の使徒編はいよいよ佳境です。私自身は連載に追いつきましたので、もう一度頭から読み直し、これからの展開に備えたいと思います。アバターの物語、すでに構想されているかもしれません。その展開でも、そうでなくても、続けて読んでいきたい物語です。作品の更新されるのをいつも楽しみにしています。


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