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わたしがおじさんになった日。


先日、わたしはおじさんになった。

姪が生まれたのだ。愛おしくて仕方がない。姪の誕生日はおじさんの誕生日でもある。なんてこった。ついに、単に年齢を表すのではなく、時にどこかネガティブな意味合いを含む「おじさん」と同じ音を持つ存在になってしまった(世界中の「おじさん」に謝りたい)。

おじさんの誕生には2種類ある。まず、姪や甥が生まれた瞬間だ。基本的に、姪や甥から見て両親の兄に当たるなら伯父さん、弟に当たるなら叔父さんとなる。私は弟に当たるため、叔父さんになった。

「叔父さん」「伯父さん」「おじさん」

どれも同じ音なのにもかかわらず、文字に起こすとそれぞれ異なった存在になり、「おじさん」だけが独特な意味を持つ(ように思える)。一つだけ定義が曖昧な存在。そう、伯父さんと叔父さんというポジティブでもネガティブでもないニュートラルな言葉に対して、文脈によっては「おじさん」には若干ネガティブなイメージがつきまとう。「おばさん」も同様かもしれない。

叔父さんと伯父さんには明確な誕生の瞬間がある一方、「おじさん」にはわかりやすい誕生の場面はきっとない。20歳の誕生日や成人式を境にわかりやすく「成人」という存在になる一方で、「大人」になる瞬間が明確にはないのと同様に。人は誰かを見て、何を基準に「おじさん」と判断するのだろう。いつから「おじさん」と自覚するのだろう。明確な瞬間はあるのだろうか。それとも、気付いたら「おじさん」として扱われ、「おじさん」であると自認し、「おじさん」として生きていくのだろうか。

「おじさん」と「おじいさん」の境目も曖昧だ。それでも、皆なんとなく、これらの言葉を巧みに使い分けている。それがなんだか面白い。

居酒屋から出てきたばかりのスーツを纏った(お腹が出ている)男性を、「若いねー。なんでもできるね」という言葉をかける男性を、勝手に「おじさん」認定するのに、年齢は同じくらいだったとしても洋画に登場するような紳士的な男性やダンディな俳優に対しては「おじさん」とは違う存在だと脳が判断する(あくまで私の脳は)。私の脳は福山雅治を「おじさん」という枠組みで処理しない。処理したとしてもネガティブなイメージを持たない「OJISAN」として扱う(うまく言語化できない!!)

「おじさん」は絶対的な存在ではない。とても不思議な生き物だ。「おじさん」であると認識されて、あるいは自覚して初めて「生まれる」。そして、いずれ「おじいさん」に「生まれ変わる」。

わたしは伯父さんになった。いつ「おじさん」になるのだろう。もしかしたら既に「おじさん」なのかもしれない。

ヤダヤダヤダヤダy

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