見出し画像

視線を感じる 静寂

大した悩みではないけれど、周りの視線を感じることがある。実際に見られている訳ではないので、頭の中で「見られている」という思考が起こっているということになる。端的に言うならば自意識過剰だ。歩いているときに通り過ぎる車や人が気になる。自転車に乗っているときは気にならない。交差点で止まるとき、自転車に乗っているときは落ち着くけれど、歩いているときはどういう姿勢にしようか落ちつかないのはあるあるだろうか。あと、誰かと一緒に歩いているときは気にならない。その人の方に意識が向いていたり、一人ではないからだからだと思う。

思考を手放して意識の状態になったとき、視線が薄くなっていくのを感じる。結局「人」という存在を大きく見すぎているのだと思う。人のことばかり考えているから、私自身や、車に乗っている人、通り過ぎる人に意識が向かう。自分自身が景色と同化し、遠くの空や森を眺めて、車や人も景色の一部として見られるようになったとき、視線は完全になくなる。視線が気になる人にしか当てはまらないけれど、今視線が気になっているかどうかで意識の状態が分かるので、最近個人的に役に立っている。


「思考を通して静寂に気づくことはできない」という文になるほどなった。思考が生まれているとき、頭の中は騒然としているので、静寂とはほど遠い状態にある。静寂に意識を向けてみたとき、世界はこんなに静かなんだったのかと驚いた。外を走る車の音がよく聞こえてきた。静寂に驚いたということは、いつもは静かではなかったということになる。部屋にいたら暖房の音が聞こえて、居間にいたら生活の音が聞こえて、何かをしている時は頭の中で音が鳴ってて、全くの静寂を感じることは意外と難しい。暖房を切ってみたら静かになった。

外の静寂と内面の静寂は別のものだけれど、外の静寂を感じたときには内面も静かになる。全く音のない状態は少し寂しいというか、不安になってくる。だから文字を入力している音に安心する。考えていると安心する。でも、静寂を感じる時間を作ってみるのもいいかもしれないと思った。思考を止めていられるから。普段は五感のうち視覚が優位になっているので、音に耳を澄まして過ごしてみると違った感じ方ができるようになるのかなと思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?