見出し画像

無職は恥ずかしいことなのか?

先日、アパートの内見に行ってきました。今は実家で暮らしているのですが、住む場所を変えてみようと思い引越しを計画しています。

不動産屋さんに案内してもらったのは、田舎には珍しい(?)家具家電付きの物件です。共用スペースがあって、そこに洗濯機や本棚、テレビが置かれていました。ホテルやシェアハウスのような雰囲気がありました。

部屋を案内してもらったあと、廊下で話をしました。そこで、

「今日はどちらから?」「兵庫県からです」
「何の仕事をしていますか?」「リモートワークをして…いました」
「今は?」「無職です」

というような話をしました。なぜ仕事を聞かれて誤魔化したのかというと、ここで伝えるべき内容なのか判断がつかなかったからです。無職だと話して何度か説教されることを経験すると「この人は無職に偏見があるタイプなのか?」と、初対面の人に対して説教センサーが誤作動しがちです。しばらく話すとそうでないことは分かりました。

なぜ仕事を聞かれたのかといえば、家賃を払う能力がない人を住ませる訳にはいかないという当たり前の理由からで、単純に事務的な質問でした。「管理会社や家賃保証会社の審査があるため、仕事が決まってからの方がいいかもしれません」という話になり、就職するつもりはなかったのでそのことを伝えました。

借りるのかどうかをそこで決めるつもりはなかったのですが、申し込んでみることにしました。現状で審査が通るのか一回試してみればいいと思ったからです。不動産屋さんは「審査が通るように頑張ってみる」「貯蓄を確認するために、通帳の写真が必要になるかもしれない」と答えてくれました。


物件から駅まで戻り、次の電車が来るまでの時間は考え事をしながら散歩しました。内見はほんの30分ほどの出来事でしたが、振り返ってみると、胸に引っかかっていることが1つありました。それは仕事を聞かれたときに「リモートワークをしていました」と、一度はぐらかそうとしたことでした。

私は、自分が今仕事をしていないことをどうでもいいことだと思っていました。仕事を辞めた直後は生活がガラッと変わってしばらくの間落ち込んでいましたが、もう悩むのはやめました。悩んで気分を落としたとしても、穏やかな心で生きる役には立たないからです。人の目を気にして外に出ることをためらっていましたが、日光を浴びて、堂々と歩いていればいいと思いました。

「あの時の私は、考えていたことと行動(言ったこと)が一致していなかったのだ」、誤魔化したことをそう説明しようと思いました。でも、それが嘘であることは分かっていました。本当は、私は前向きになっていると思いつつも、心の底では仕事をしていないことを恥ずかしいことだと思っていたのです。


なぜ私は、仕事をしていないことを恥ずかしいことだと思ったのでしょうか?

それは、「仕事」という概念に多くのものが詰め込まれすぎているからだと思いました。仕事をすることには、やりがいがある、頑張っている、他者貢献をする、自己実現をする、スキルアップする、お金を稼ぐなどの様々な要素が含まれています。だから、仕事をしていないと言えば、これら全てをやっていないような感覚になってしまうのです。これが「無職」という言葉に含まれるネガティブさの元だと思います。

変な話ですが、ある人が仕事を背負って苦しんでいるとき、仕事もまた、やれやりがいだ、やれスキルアップだと、私たちからの期待を背負って苦しんでいるのです。仕事以外に、生活を維持しつつ社会と関わる方法が生まれるときは、仕事の荷を他の何かが肩代わりするときだと思います。

例えば、全ての人に平等にお金が配られる制度は、仕事からお金を稼ぐことを肩代わりします。そうして仕事が分解されていったとき、「無職」という言葉に含まれるネガティブな意味も分解されていくだろうと思います。

そして、仕事をしていないからといって、仕事の構成要素の全てをやっていないのかと言えば、答えはNoです。私が仕事をやめて失ったことは、お金を得ることだけです。養っている人がいるわけではないので、これは些細なことです。

今取り組んでいることにはやりがいがありますし(やりがい求めてやっているわけではありませんが)、力を注いでいます。他者貢献は、仕事をしていた時からあったのか自信がないので、もとより小さなところからのスタートです。今こうして書いている文章が誰かに読まれ、何かしらの思いが生まれるきっかけになっているのであれば、人の役に立っていると言えるのではないかと思います。

だから、仕事を聞かれたときに誤魔化す必要はありませんでした。もし過去に戻れるのであれば、「私は無職です」あるいは「私は仕事をしていません」と、自信を持って(あるいは普通に)言おうと思いました。少しの恥ずかしさはあるかもしれませんが、正直であることの方が大事なことです。


力を注いできたことから離れてから、前向きに考えたり活動できるようになるまでには長い時間がかかりました。仕事を辞めた直後は無気力状態になっていました。「どうせ死ぬのに、何かをすることに意味があるのか?」と、思春期に考えるようなありきたりな問いが浮かんで、それに答えられずにいました。

生活が仕事に依存していました。一日に八時間働き、それは精力的に活動している時間のほとんどを占めていました。仕事をしていれば、生きることの意味や目的を深く考えずに済みました。そうしているうちに、仕事という補助輪なしでは生活できなくなっていました。

休んでいる間は(今もですが)、本をじっくり読んだり、自然を見たり、体を動かしたりしました。今まで考えていたことを振り返ったり、心に起こっていることを観察したり、思考と実際の経験を行き来しました。回り道だったかもしれませんが、人生について、人間について、心について、拙いながらも理解を深めるきっかけになったので、私にとっては欠かせない経験だったのだと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?