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ファイナルソード問題を振り返って――世の中には「クソゲーであることで、ある種の面白さを獲得しちゃってるクソゲー」は確かにある

今月のテーマ【夏ゲー】を書こうとしたら、(めちゃくちゃ遅ればせながら)電ファミのファイナルソード記事がちょっと燃えていたのが目についてしまったので、僕の「クソゲー観」について思ったことを書いておく。


ただ、焦点となっていた「メディアがクソゲーという言葉を使うことは是か非か」みたいなところにはあまり興味がなくて、そのへんは電ファミのDiscordで編集長の平さんが詳しくコメントされているので気になる人はそちらを読むとよろしい(メディア側として、とても真摯なコメントだと思う)。あとラー油さんのツイートもちょっと物議をかもしてたけど、ラー油さんもそこまでの意図はなかったと書いてるし、ここでは深く言及しないでおきます。

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「クソゲーであるという面白さ」は確かにある

それはそれとして、電ファミのファイナルソード記事はアリかナシかについてスタンスを表明しておくと、僕はアリだと思っています(ただ、メディアがクソゲーという言葉を使うことの全部を肯定するわけではない、というのははっきり書いておきたい)。

そもそも今、このタイミングでファイナルソードを紹介するなら「クソゲーと話題になっている」ことに触れないわけにはいかんでしょう(この際「クソゲー」という言葉自体は大した問題ではなくて、「低評価ゲーム」とか「陣内がエンタで遊ぶゲーム」とかに置き換えても一緒だと思っている)。ここで大事なのは、もはや「低評価である」という世間の評価が、ファイナルソードというゲームにとって切り離せない要素になっている、ということです。

記事のタイトルでも書いたけど、世の中には「クソゲーであることで、ある種の面白さを獲得しちゃってるクソゲー」というのが確かにあるんですよ。別の言い方をすると「クソゲーであるという評価が既にゲームの要素の一部になっているクソゲー」というか。分かりやすい例をあげると、たけしの挑戦状、ソードオブソダン、デスクリムゾン……あと今度Switchに移植される「星をみるひと」とか。

そしてこの手のクソゲーを紹介する場合、「クソゲーである」ということに触れずに語るのは意味がないと思うわけです。だって「クソゲーであるという前提」が、もはやそのゲームの一部として食い込んじゃってるんだもん。

「これ有名なクソゲーって言われてるけど遊んでみようかな……」
「よーしどんだけクソゲーなのか確かめてやるか!」
「軽い気持ちで手を出しちゃったけど……ごめん、想像以上だったわ……」
「クソゲーって言われてるけど全然面白いじゃん!?」

――とか、こういう反応とか感想って、クソゲーだと思って遊ばないかぎりは絶対に出てこないわけです。だったらそれはもう、立派な「そのゲームでしか味わえない体験」の1つと言っていいんじゃないか。たとえそれが、開発者が意図したものでなかったとしても。

話をファイナルソードに戻すと、このゲームも間違いなく「クソゲーであることで、ある種の面白さを獲得しちゃってるクソゲー」の1つでしょう。というか、インディーゲーム花盛りの昨今、単に低品質なだけでは見向きもされなくなってきている中で、これだけ注目を集めたというのはある意味すごい。誰かが「クソゲー界のニューウェーブ」と表現していたけど、これはけっこう的を射ている気がします。これこそ令和のクソゲーというか。


で、そういう事情も踏まえると「クソゲーとして話題になっている」ということに触れつつファイナルソードを紹介するのは、書き方の好き嫌いや上手下手はあったとしても、紹介の方向としては間違っていないと思うんですよね。

「クソゲーだから遊ぶ」という行為に感じる“ヤダ味”

ただ、さんざん言われているけど、クソゲーという言葉は非常にデリケートで、誤解を招きやすいワードです。当然、ちゃんと説明しなければ「単にこき下ろしているだけ」と受け取る人も出てくる。ただまあ「十人が読んだら十人が同じ意味で読み取れるように書く」というのは商業原稿を書く上では基本中の基本なので、今さら言うこともないでしょう。

もう一つ、個人的にちょっと気になったのは、この「クソゲーだから遊ぶ」という遊び方が、そもそもあまり品のいいものじゃない、ということです。これについては正直、ねとらぼでもこんな記事を載せているので、自戒も込めての発言として……。


僕もさんざん、デスクリムゾンやら里見の謎やらを面白がってきた身なのでまったくエラそうなことは言えないんですが(でもデス様はちゃんとクリアしたぞ)、どういう心境の変化か、今回のファイナルソードについてはあまり「クソゲーだ! 遊ぼう!」という気にはならなかったんですよね。

単に年をとって丸くなったなのか、あるいはファイナルソードが小規模開発のインディーゲームだからなのか……自分でも理由はよく分からないんだけど、ともかく今回に限ってはなぜか「すごいクソゲーが出たぞ!」と突撃するのはためらわれてしまった。だから確かに「メディアがそういう遊び方を助長するのってどうなの?」という部分にお怒りになる人の気持ちもちょっと分かる。

クソゲーだから遊ぶのって、もちろん楽しいんだけど、ある意味ではやっぱりそのゲームに対して失礼だし、同時に「ファイナルソードよりもっとよくできているのに遊んでもらえないゲーム」に対しても失礼になってしまう。もちろんこれは好みというか単に「お気持ち」の問題なので、そういう遊び方をする人に苦言を呈そうなどとはまったく思わない(むしろ長いゲーム人生の中で一度くらいはぜひ体験してみてほしいとさえ思っている)。ただ、メディアとしてそういう取り上げ方をすることについては、中には確かに不快に思う人もいるだろうな……などとちょっと思ったりしました。


おまけ:ちょっとだけゾッとするかもしれないファイナルソード小話

――ということで、ファイナルソード問題と、クソゲーについてのあれこれをつらつらと書いてみました。

まあ、デス様みたいに社長が自分でネタにしてたり、Switch版「星をみるひと」のように、プレスリリースにもう「オリジナルのままの不条理な世界観」「当時のプレイヤーを悶えさせたイノセントな難度」とか書いてあったりとか、ゲーム側が「クソゲーであることに自覚的」である場合は思いっきり乗っかっていけばいいと思いますけどw

最後にマガジン読者向けに、ちょっとだけゾッとするかもしれないファイナルソード小話を1つ(大した話ではない)。

ファイナルソード、なんだかんだで僕はまだ遊べていないんですけど、Switch版をいち早く遊んでいたするめさんが、ゲームライターマガジンのLINEグループでこんなことを言ってたんですよ。

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